日本中が「攘夷だ」「開国だ」と揺れている時、そうした争いに背を向けて日本の近代化を見据えている者もいました。その一人が佐賀藩主
鍋島直正
です。
文政
ぶんせい
十三年(1830)、十五歳の若さで藩主となった直正は、まず破綻していた財政を立て直すため、役人の員数を五分の一に削減し、磁器・茶・石炭などの産業振興に力を注ぎ、農民には小作料の支払いを免除して農村を復興させました。また教育予算を拡大し、さらに藩校「弘道館」を拡充させ、藩の改革の担い手となる人材を育成しました。そして出目にかかわらず、有能な者を積極的に登用したのです。
直正の凄いところはそれだけではありません。
嘉永
かえい
三年(1850)、鋳物や鍛冶の優れた職人を集め、反射炉を作ったのです。反射炉とは、耐火
煉瓦
れんが
を積み上げた搭の内部で燃料を燃やして
銑鉄
せんてつ
を高温で熔かし、それを鋳型に流し込んで大砲を作る施設です。これがなければ強い鉄を作ることが出来ません。何度も失敗を繰り返し、担当の家老は切腹を申し出ましたが、直正はそれを押しとどめ、成功するまでやり抜くように命じました。そして苦労の末、ついに西洋の最新式大砲であるアームストロング砲を日本人だけの手で完成させたといわれています。
また嘉永五年(1852)、黒船来航の前年、直正は独自に理化学の研究・実権をする施設である精練方を設置し、蘭書を研究させて、火薬・弾丸・ガラス・石炭・せっけん・写真機などを作っています。この精練方の事業には膨大な費用がかかり、藩の重臣は経費節減のため廃止を主張しますが、直正はそれを退けて研究開発を続けさせました。
直正がこれほどの情熱を持って西洋の技術導入を図ったのは、彼が生まれる七年前、文化五年(1808)の「フェートン号事件」が理由ではないかと私は考えています。
軍事力がないばかりにむざむざとイギリス船に鼻であしらわれ、藩の家老を何人も切腹させられた事件は、鍋島家の屈辱の歴史として語られていたに違いありません。直正は西洋に対抗するには近代的な科学技術が不可欠だと考えたのでしょう。
慶応
けいおう
元年(1865)、佐賀藩はついに日本で初の
実用
・・
蒸気船「
凌風丸
りょうふうまる
」を完成させていました。実際の蒸気機関の構造を見たこともないのに、本と図面だけで、同じものを作り上げたのです。これは驚異的な偉業です。
この時、大きな働きをしたのが「からくり
儀右衛門
ぎざえもん
」の異名を持つ
田中
たなか
儀右衛門です。田中は非常に高度なテクノロジーを用いたからくろ人形を作って全国で興行して人気を博した発明家であり興行師でもありましたが、五十代の時に佐賀に居を移し、鍋島直正の精錬方に入りました。田中はそこで蒸気機関車と蒸気船の模型を作り、反射炉や大砲の製造にも大きな役割を果しました。
余談ですが、田中の作った「
弓曳童子
ゆみひきどうじ
」というからくり人形は、ゼンマイを巻くだけで、左手に弓を持った童子が右手で矢を取り、おれを弓につかえて放つという一連の動作を演じる人形です。その複雑な動きは現在のエンジニアでも驚嘆するほどのもにです。また彼の作った「
万年自鳴鐘
まんねんじめいしょう
」という時計は、一度ゼンマイを巻けば一年間動き続けるというもので、しかも太陽と月の動き、二十四節気、日曜、
十干十二支
じっかんじゅうにし
、月齢などを同時に表示するという当時としては驚異的な時計です。田中は明治になって東京に移り住み、七十五歳の時に工場兼店舗を構えますが、これが後に東京芝浦電気株式会社を経て、現在の株式会社東芝になりました。
また直正は天然痘ワクチンの普及に貢献した人物でもありました。嘉永二年(1849)、オランダ商館の医師から入手した牛痘ワクチンを、当時四歳だった長男に接種したのです。この時代、日本ではほとんど前例がないのもかかわらず、藩主が跡継ぎである息子に種痘を施すという行為は常識では考えられません。直正がいかに正確な知識を持っていたかという証拠ですが、同時にその勇気に感動します。このワクチンが後に大坂の
緒方洪庵
おがたこうあん
などに分与されて各地に種痘所が開設され、日本での天然痘の撲滅に大きく貢献したのです。
直正は黒船が来た時、開国の意見を掲げますが、その後は佐幕、尊皇、公武合体に関して、いずれの派にも属しませんでした。日本を立て直すには、そんなことよりも徹底した近代化が先だと考えていたのかも知れません。
同時代の薩摩藩主、島津
斉彬
なりあきら
もまた直正と同じく近代化を目指した人でした。直正に続いて反射炉の建設に着手しています。この時、何度も失敗して挫けそうになる藩士に向かって斉彬が言った「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人もひとなり。屈することなく研究に励むべし」という言葉は、斉彬の精神を表したものとしてよく知られています。
薩摩藩は苦労の末に、西洋式軍艦「昇平丸しょうへいまる」を建造し、さらに佐賀藩に先駆けて、日本初の儒汽船「雲行丸うんこうまる」を建造しました。これは中浜万次郎なかはままんじろう(通称・ジョン万次郎)の知識をもとに作った越通船おつとせんと呼ばれる和洋折衷船に蒸気機関を搭載した実験船でしたが、これを見たオランダ海軍軍人ヴィレム・ホセイン・ファン・カッテンデーケをして、「簡単な地面を頼りに蒸気機関を完成させた人物には非凡な才能がある」と驚嘆せしめています。後の薩英戦争でイギリス軍を苦しめたのは、先進技術を取り入れていた斉彬の政策に負うところが大きかったといわれています。
斉彬も直正同様、旧弊に囚われず、下級武士出身の西郷隆盛さいごうたかもりを登用する先進性を備えた藩主でした(前述の中浜万次郎を重用したのも斉彬)。この時代にこそ必要な人でしたが、残念ながら安政あんせい五年(1858)に急死しました。この死については弟の久光による暗殺説が根強くあります。
直正も斉彬も混迷の時代にあって、きわめて合理的な精神を備えた傑物であり、その業績も傑出していましたが、忘れてならないのは、彼らの命を受けて、数々の新たな設備や兵器、製品を形にしたのが無名の職人たちだったことです。彼らは現代のように工科大学や理学部で専門教育を受けた人々ではありません。にもかかわらず懸命に勉強して、ついに当時の世界最高のテクノロジーに追いついたのです。私はこうした名も無き先人の偉業に感動します。
宇和島藩主の伊達宗城むねなりも蒸気船の建造に成功していますが、驚いたことに、、これを作ったのは無学な仏壇職人で提灯ちょうちん屋の前原嘉蔵まえばらかぞうという男でした。宗城に蒸気船を作れと命じられた家臣らが、困り果てた末に、器用だという評判だけで連れて来た職人だったのです。
ところがその嘉蔵が藩医の村田蔵六むらたぞうろく(元長州藩士、後の大村益次郎おおむらますじろう)の翻訳したオランダの本と図面だけを見て、不眠不休で蒸気機関の模型を作り上げました。それを見た宗城はすぐさま嘉蔵を藩士として召し抱え、蒸気船を作れと命じます。余談ですが、嘉蔵が羽織袴に二本の刀を差して家に戻った時、近所の人々は「嘉蔵は気が狂った」と噂したといいます。その嘉蔵が苦労の末、見事に小型の蒸気船を作り上げたのです。ペリーが黒船で来航してわずか六年後のことでした。
司馬遼太郎しばりょうたろうは「この時代宇和島藩で蒸気機関を作ったのは、現在の宇和島市で人工衛星を打ち上げるのに匹敵する」と書いています。嘉蔵も見事ですが、そんな彼を見つけて来た宇和島藩の家臣も、また」一介の提灯屋であった嘉蔵を武士として召し抱えた藩主も立派でした。なお村田蔵六はその後長州藩に戻って大活躍することとなります。
もう一つ、敢えて強調したいことがあります。
この時代、白人の列強は大砲を装備した蒸気船で世界中を駆け巡っています。アフリカ、南アメリカ、中東、インド、東南アジア、中国などの有色人種の人々は皆、最新式の動燃機関を備えた船を見ています。彼らはそのテクノロジーに驚きはしたことでしょうが、同じものを作った民族はどこにもありません。しかし日本人は違いました。見様見真似でまたたくまに同じものを作り上げたのです。しかも欧米人の助力も援助もなく、三つの藩がそれぞれ独自の研究と工夫によって完成させたのです。
私はここに我々の祖先の持つ底知れない力を見ます。おそらく欧米人もまた、日本人の他の有色人種とは何かが違うと悟ったことでしょう。
明治に入って日本は驚異的なスピードで近代化を達成しますが、その萌芽はすでに幕末の頃にはっきりと現れていたのです。前原嘉蔵や前述の田中儀右衛門などを見ると、江戸時代には優れた知性と発想を持った庶民が少なくなかったであろうということが窺えます。
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