~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (下)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
欧米列強との初めての戦闘
文久 ぶんきゅう 三年(1863)三月、将軍 家茂 いえもち は朝廷からの度重なる上洛要求( 和宮 かずのみや 降嫁の折の約束であった)に抗しきれず、徳川将軍として二百三十年ぶりに上洛しました。
この時、朝廷は、家茂と 一橋慶喜 ひとつばしよしのぶ (将軍後見職)に攘夷決行(これも和宮降嫁の折の約束でもあった)を要求します。家茂らは、攘夷は不可能だとの説得に努めますが、強硬な攘夷論を掲げる公家たちに押し切られ、ついに 孝明 こうめい 天皇の下賀茂・上賀茂神社への攘夷祈願の行幸まで同行ささられてしまいました。もはや幕府の威光などどこにもありませんでした。その上、将軍後見職の慶喜は、将軍の名で「五月十日をもって攘夷を決行する」という約束までしてしまいます。
この時の慶喜の態度には唖然とするほかありません。アメリカやイギリスと戦争して勝てるはずがないのは、総明で聞こえた慶喜なら百も承知だったはずです。にもかかわらず、苦し紛れにそんな約束をするなど、姑息を通り越し常軌を逸した態度といえましょう。しかし慶喜がそう言わねばならないほど朝廷の権威は強く、当時の日本は「攘夷こそ正義」という異常な空気に包まれていたのです。
外国人に対するテロは志士たちによるものではありませんでした。家茂の上洛の前年、武蔵国の生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)の近くで、薩摩藩の行列の前を馬で通って列を混乱させたイギリス人の一行を、怒った藩士が殺傷する事件が起きています(生麦事件) 駕籠 かご に乗った国父(藩主挌) 島津久光 しまづひさみつ が「斬れ」と命じたという説がありますが、真偽は不明です。
文久三年(1863)七月には、生麦事件の報復のためにイギリス艦船が鹿児島を襲撃し、薩英戦争が怒りました。イギリス軍の砲撃によって鹿児島市内の一割が焼かれますが、薩摩藩士は善戦し、イギリス軍は撤退します。この戦闘ではイギリス軍の方が多くの死者を出しました。最終的には、薩摩藩が幕府から金を借りてイギリスに賠償金を支払って講和することになりましたが、当時、西洋の国々は薩摩藩の強さに驚きました。ニューヨーク・タイムズ紙が、日本の勇敢さと強さを称え、彼らを侮ってはいけないと書いたほどです。この戦いで薩摩とイギリスの双方が相手の優秀さを認め合い、以後、急速に接近していきます。
一方、同年五月十日、長州藩の攘夷派は、幕府が朝廷に攘夷決行を約束したことを受けて、馬関ばかん海峡(下関海峡)を通るアメリカ商船を砲撃しました。逃げていくアメリカ商船を見て攘夷派の意気は大いに揚がり、その後、フランス軍艦、オランダ軍艦をも砲撃しました。
しかし翌月、アメリカ軍艦が報復に来て長州の軍艦を撃沈し、下関港を砲撃します。
さらに翌年、イギリス(九隻)、フランス(三隻)、オランダ(四隻)、アメリカ(一隻)の四国艦隊が、前年の砲撃の報復と航行の安全確保のために、再度、下関の砲台を攻撃しました。長州藩は四日で砲台を占拠され、すべての砲門を奪われます。この戦いは「馬関戦争」と呼ばれています。
西洋諸国との戦闘によって、薩摩藩も長州藩も近代装備の威力を知ります。薩摩藩は和議を結んだイギリスから近代的な兵器を買い入れ、長州藩もそれまでの攘夷の方針を変更してイギリスに接近していきます。このことによって、二つの藩は、その後、討幕の主役を務めることとなるのです。
長州藩はイギリスの要求(「新たな砲台建設の禁止」「三百万ドルの賠償金」「馬関海峡を通る外国船に薪水しんすいを提供」など)をほぼ全面的に呑まされましたが、ただ一つ彦島租借に関しては拒否しました。この時、長州藩は脱藩の罪で謹慎処分になっていた高杉晋作たかすぎしんさく(吉田松陰よしだしょういんの「松下村塾」の門下生)を赦免して、イギリスとの講和を一任していました(高杉は筆頭家老の養子と偽って講和の席に着いていた)が高杉は日本の領土をイギリスに渡せば第二の香港になると考えたようで、それだけは断固として拒否したのです。高杉は二年前に上海に渡航しており、イギリスの租借地で「犬と中国人、立ち入り禁止」と書かれた看板を見て激怒したといわれています。
驚くべは、このとき高杉が二十四歳の若さだたっという事実です。通訳を務めた英国の外交官アーネスト・サトウは高杉のことを「魔王のようだった」と評しています。もっとも威勢がよかったのは最初だけで、実際の交渉に入ると、どんどんおとなしくなっていったともいわれています。
ただ、彦島租借拒否の話は、講和の席にいた伊藤博文いとうひろふみの回想によるもので、交渉の公式記録には残されていません。しかし国際感覚に優れていた高杉だけに、真実ではないかと私は見ています。
その後、高杉は藩内でクーデターを起こし、長州藩の実権を掌握、藩論を倒幕に統一します。
2025/11/13
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