~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/12/15 ながし (三)
おなじき廿三日、一切経の別所より配所へおもむき給ひけり。さばかんの法務の大僧正ほどの人を、追立おつたて鬱使うつしがさきにけたてさせ、今日けふをかぎりに都を出でて、関の東へおもむかれけん心のうち、おしはかられて哀れなり。大津おほつ打出うちではまにもなりしかば、文殊楼もんじゆろう軒端のきばの、しろじろとして見えけるを、二目ふためとも見給はず、袖を顔におしあてて、涙にむせび給ひけり。山門に、宿老しゆくらう碩德せきとく、おほしといへども、澄憲ちようけん法印ほふいん、其時はいまだ僧都そうずにておはしけるが、あまりに名残なごりを惜しみ奉り、粟津あはづまで送り参らせ、さてもあるべきならねば、それよりいとま申して、かへられけるに、僧正心ざしのせつなる事を感じて、年来ねんらい孤心中こしんちゆうに秘せられたりし一心三観いつしんさんぐわん血脈けつみやく相承さうじようをさづけらる。此法は釈尊しやくそんの付属、波羅奈国はらないこく馬鳴比丘めみやうびく南天竺なんてんぢく龍樹菩薩りゆうじゆぼさつより、次第に相伝さうでんしきたれるを、今日けふのなさけにさづけらる。さすが我朝わがてう粟散辺地そくさんへんぢさかひ濁世末代ぢよくせまつだいといひながら、澄憲ちようけんこれを付属して、法衣ほふえたもとをしぼりつつ、都へ帰りもぼられける、心のうちこそたッとけれ。
(口語訳)
同二十三日、一切経谷の別院から配所へお行きになった。あれほど偉い寺務総長の大僧正ほどの人を、追い立てる役人が、追い立てて先に行かせ、今日を最後に都を出て、逢坂おうさかの関の東へお出かけになる僧正の心中はどんなであったか想像されて哀れである。大津の打出の浜にもさしかかった頃、文殊楼もんじゅろうの軒端が白々と見えたのを、一目ご覧になっただけでそでを顔に当てて、涙にむせばれた。山門に宿老しゅくろう碩德せきとくは多いけれども、澄憲ちょうけん法印は当時まだ僧都そうずでおられたが、あまりに名残なごり惜しく思い申して、粟津あわづまで送ってさしあげ、どこまでも送って行くわけにもゆかないので、そこからおいとまして、帰って行かれたが、僧正は、その志の深い事に感心して、長年自己の心中に秘めておかれた一心三観の血脈の相伝を伝授された。この法は釈迦しゃかの伝授されたもので、波羅奈国はらないこく馬鳴比丘めびょうびく、南インドの龍樹菩薩りゅうじゅぼさつからしだいに相伝してきたものだが、それを今日の情けに対してお授けになる。いくら日本は辺鄙へんぴな小国であり、汚れた末の代だといっても、澄憲がこれを伝授して、僧衣のたもとを涙で濡らしながら、都へ帰って行かれた、その心の内は尊いことであった。
山門には大衆おこッて僉議せんぎす。「そもそも義真和尚ぎしんくわしやう よりこのかた、天台座主はじまッて五十五代に至るまで、いまだ 流罪るざいれいを聞かず。つらつら事の心を案ずるに、延暦えんりやくころほひ、皇帝くわうていは帝都をたて、大師は当山によぢのぼッて、四明しめい教法けうぼふを此所にひろめ給ひしよりこのかた、五障ごしやう女人によにん跡をたえて、三千の浄侶居じやうりよきよをしめたり。峰には一乗いちじよう読誦どくじゆ年ふりて、ふもとには七社しちしやの霊験あらたなり。彼月氏かのぐわつし霊山りやうぜんは王城の東北とうぼく大聖だいしやう幽崛いうくつなり。この日域じちゐき叡岳えいがくも、帝都の鬼門きもんそばだッて、護国の霊地なり。代々だいだい賢王けんわう智臣ちしん、此所に壇場だんぢやうをしむ。末代ならんがらに、いかんが当山たうざんきずをばつくべき。心うし」とて、をめきさけぶといふ程こそありけれ、満山まんざんの大衆、みなひんがし坂本さかもとへおり下る。
(口語訳)
山門では衆徒らが起こって評議をした。「そもそも義真ぎしん和尚以来、天台座主てんだいざすが始まって五十五代の今に至るまで、まだ座主が流罪になった例を聞かない。よくよく事情を考えると、延暦の頃桓武かんむ天皇は平安京に都を立て、伝教でんぎょう大師はこの山に登って、天台の教えを当地にお広めになって以来、五障の女性は一人もなく、三千人の清浄な僧侶が住んでいる。峰には長い年月法華経ほけきょう読誦どくじゅが行われ、ふもとには日吉山王七社の霊験が日々にあらたかである。あのインドの霊山は王舎城の東北にあたり、大聖釈迦の住んだ岩屋である。この日本の比叡山も、帝都の東北の鬼門にそびえて、国家を鎮護する霊地である。代々の賢王智臣がここに壇場を設けている。末代だからといって、どうして当山にきずをつけてよかろうか。悲しいことだ」といって、わめき叫ぶやいなや、比叡山全部の衆徒がみな東坂本へ下った。
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