~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/12/11 ながし (二)
明雲めいうんと申すは、村上天皇第七の皇子、具平親王ぐへいしんわうより六代のおんすゑ、久我大納言こがのだいなごん顕通卿あけみちのきやうの御子なり。まことに無双ぶさう碩德せきとく天下てんか第一の高僧におはしければ、君も臣もたッとみ給ひて、天王寺、六勝寺ろくしようじの別当をもかけ給へり。されども陰陽頭おんやうのかみ阿部泰親あべのやすちかが申しけるは、「さばかりの知者の明雲となのり給ふこそ心えね。うへに日月じつげつの光をならべて、したに雲あり」とぞ難じける。仁安にんあん元年弐月廿日はつかのひ、天台座主にならせ給ふ。おなじき三月十五日、御拝堂ごはいどうあり。中堂の宝蔵ほうぞうをひらかりけるに、種々の重宝ちようほう共の中に、ほう一尺の箱あり。白い布でつつまれたり。一生いつしやう不犯ふぼんの座主、かの箱をあけて見給ふに、黄紙わうしに書けるふみ一巻あり。伝教大師でんげうだいし、未来の座主の名字みやうじを、ねてしるしおかれたり。我名わがなのある所まで見て、それより奥をば見ず、もとのごとくにまき返しておかるるならひなり。されば此僧正も、さこそおはしけめ。かかるたッとき人なれども、先世の宿業しゆくごふをば、まぬかれ給はず。哀れなりし事どもなり。
(口語訳)
この明雲と申す人は、村上天皇第七皇子、具平親王から六代の子孫で、久我大納言顕通あきみち卿の御子である。まことにまたとない大德の方で、天下第一の高僧でいられたので、君も臣も尊敬なさって、四天王寺してんのうじ六勝寺ろくしょうじの別当も兼ねておられた。しかし陰陽頭安倍泰親やすちかが申すには、「あれほどの知恵者が明雲と名乗っていられるのはわけがわからぬ。上に日月の光(文字)を並べて、下に雲がある」と非難した。仁安元年二月二十日、天台座主てんだいざすになられる。同年三月十五日拝堂なさって、中堂の宝蔵を開かれたところ、種々の重宝などの中に、一尺(約30センチ)四方の箱があり、白い布で包まれている。生涯仏戒を犯さぬ座主が、その箱を開けて御覧になると、黄色の紙に書いた文字が一巻あり、伝教大師でんぎょうだいしが未来の座主の名字を、前もって記しておかれたのである。自分の名のある所まで見て、それから先を見ず、もとのとおり巻き返しておかれるのが常である。だからこの僧正もそのようになさったのであろう。こういう尊い人だが、前世の行為の報いを免れられない。まことに感慨深い事どもである。
おなじき廿一日、配所伊豆国いづのくにと定めらる。人々様々やうやうに申しあはれけれども、西光法師父子が讒奏ざんそうによッて、かようにおこなはれけり。やがて今日けふ都のうちをおひいださるべしとて、追立おつたて官人くわんにん、白河の御房ごぼうにむかッておひ奉る。僧正泣く泣く御房を出でて、粟田口あはたぐちのほとり、一切経いつさいきやう別所べつしよへいらせ給ふ。山門にはせんずるところ、我等がてきは、西光父子に過ぎたる者なしとて、彼等かれら親子が名字みやうじを書いて、根本こんぽん中堂ちうだうにおはします十二じふに神将じんじやうのうち、金毘羅こんぴら大将だいじやうの左の御足みあしのしたにふませ奉り、「十二神将七千しちせん夜叉やしや、時刻をめぐらさず、西光父子がいのちを召しとり給へや」と、をめきさけんで呪詛しゆそしけるこそ、聞くもおそろしけれ。
(口語訳)
同月二十一日、配所は伊豆国と定められた。人々がさまざまにとりなし話し合われたけれども、西光法師父子の讒奏ざんそうによって、そのように行われたのであった。ただちに今日都の中を追い出されるべきだというので、追い立てる役人が白河しらかわの御坊に出向いて僧正(明雲)を追い立て申した。僧正は泣く泣く御僧坊を出て、粟田口あわたぐちの辺りの一切経谷の別院におはいりになる。山門では要するに彼らの敵は西光父子以上の者はないといって彼等ら親子の名字を書いて、根本中堂におられる十二神将のうち、金毘羅こんぴら大将たいしょうの左の御足の下に置き、お踏まれになるようにして、「十二神将七千夜叉しちせんやしゃ、時を移さず西光父子の命をお召し捕りくだされよ」とわめき叫んで呪詛じゅそしたのは、聞くだけでも恐ろしい事であった。
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