~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/11/23 だい えん しやう (一)
夕におよんで、蔵人くらんどの左小弁させうべん兼光かねみつに仰せて、殿上てんじやうにてにはか公卿くぎやう僉議せんぎあり。保安ほうあん四年しねん七月に神輿しんよ入洛じゆらくの時は、座主ざすに仰せて赤山せきさんやしろへいれ奉る。又保延ほうえん四年四月に神輿入洛の時は、祇園別当ごをんのべつたうに仰せて祇園のやしろへいれ奉る。今度は保延ほうえんの例たるべしとて、祇園別当ぎおんのべつたう権大僧都ごんだいそうづ澄憲ちようけんに仰せて、秉燭へいしよくに及んで祇園のやしろへ入れ奉る。神輿にたつところのをば、神人じんにんして是をぬかせらる。山門の大衆、日吉ひよしの神輿を陣頭じんとうへ振り奉る事、永久より以降このかた治承ぢしようまでは六個度かどなり。毎度に武士を召してこそふせがるれども、神輿射奉る事、是はじめてと承る。「霊神れいしんいかりをなせば、災害ちまたにみつといへり。おそろしおそろし」とぞ、人々申しあはれける。
(口語訳)
夕方になって蔵人の左小弁兼光かねみつに命じ、殿上の間でにわかに公卿の会議があった。保安ほうあん四年七月に神輿入洛じゅらくの時は、天台座主てんだいざすに仰せつけて赤山せきさん神社へお入れ申した。また保延ほうえん四年四月に神輿の入洛の時は、祇園ぎおんの別当に仰せつけて神輿を祇園神社へお入れ申した。今度の事件は保延の例によるべきだといって、祇園の別当権大僧都澄憲ちょうけんに仰せつけて、夕刻になって祇園神社へお入れ申した。神輿に立っていた矢を、神官に抜かせられた。山門の衆徒が日吉の神輿を陣頭にお振り申す事は、永久から以後治承までには六度である。そのたびに武士を召してお防ぎになったが、神輿を射奉る事は、これが初めてと聞いている。「霊神れいしんが怒れば、災害はちまたに満ちるといっている。恐ろしい、恐ろしい」と、人々はみな申しあった。
おなじき十四日じふしにちの夜半ばかり、山門の大衆、又おびただしう下洛げらくするときこえしかば、夜中やちゆう主上しゆしやう腰輿えうよに召して、院御所ゐんのごしよ法住寺殿ほふぢゆうじどの行幸ぎやうかうなる。中宮ちゆうぐうは御車にたてまつて行啓ぎやうげいあり。小松こまつのおとど、直衣なほしおうて、供奉ぐぶせらる。嫡子権亮ごんのすけ少将ぜうしやう維盛これもり束帯そくたいにひらやなぐひおうて参られけり。関白殿をはじめ奉ッて、太政大臣だいじやうだいじん以下いげの公卿殿上人、我も我もとはせ参る。およそ京中の貴賤きせん、禁中の上下、さわぎののしる事、おびたたし。山門には、神輿しんよたち、神人じんにん宮仕みやじ射ころされ、衆徒しゆとおほくきずをかうぶりしかなば、大宮おほみや二宮にのみや以下いげ、講堂、中堂ちゆだう、すべて諸堂、一宇いちうものこさず焼き払つて、山野さんやにまじはるべき由、三千一同に僉議せんぎしけり。是によッて、大衆だいしゆの申す所法皇おんばからひあるべしと、きこえしかば、山門の上綱じやうかう等、子細を衆徒にふれむとて、登山とうざんしけるを、大衆おこッて、西坂本にしさかもとより皆おッかへす。
(口語訳)
同月十四日の夜半ほどに、山門の衆徒が、また大勢比叡山から京都に降りて来るという事なので、夜中に天皇は腰輿ようとに乗られて、院の御所、法住寺殿ほうりゅうじどのへ行幸なさる。中宮は御車に乗られて行啓なさる。小松の大臣(重盛)直衣のうしに矢を背負ってお供なさる。重盛の嫡子権亮少将維盛これもり は束帯に平胡籙ひらやなぐいを背負って参られた。関白殿をはじめとして、太政大臣以下の公卿・殿上人は我も我もとせ参ずる。およそ京都中の貴い者卑しい者、内裏の身分の高い者も低い者も、騒ぎ立てる事は、大変なものである。山門では神輿が矢に立ち、神人・宮仕が射殺され、衆徒が大勢負傷したので、大宮。二宮以下、講堂・根本中堂、すべての諸堂を一つも残さず焼き払って、山野に隠れるべきだと、三千の衆徒がそろって決議した。このために、衆徒の申すところを法皇がお取り上げになるだろうといううわさだったので、比叡山の上席の役僧らは、情勢を衆徒にしらせようといって、比叡山に登って来たのを、衆徒は立ち上がって、西坂本からみな追い返した。
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