山門には、御裁断遅々ちちのあひだ、七社しちしやの神輿しんよを、根本中堂こんぽんちゆうだうにふりあげ奉り、其御前おんまへにて、信読しんどくの大般若だいはんにやを七日しちにちようで、関白殿くわんぱくごのを呪詛しゆそし奉る。結願けつぐわんの導師には仲胤法印ちゆういんほふいん、其比そのころはいまだ仲胤ちゆういん供奉ぐぶと申ししが、高座にのぼりかねうちならし、表白へうびやくの詞ことばにいはく、「我等なたねの二葉ふたばより、おほしたて給ふ神かみたち、後二条ごにでうの関白殿に、鏑箭かぶらや一つはなちあて給へ大八王子権現だいはちわうじごんげん」とたからかにぞ祈誓したるける。やがて其夜そのよ不思議の事あり。八王子の御殿より、其朝そのあした関白殿の御所の御格子みかうしをあげけるに、唯今ただいま山よりとッてきたるやうに、露にぬれたる樒しきみ一枝ひとえだたッたりけるこそおそろしけれ。やがて山王さんわうの御おんとがめとて、後二条の関白殿、重き御病おんやまひをうけさせ給ひしかば、母うへ大殿の北の政所まんどころ大きになげかせ給ひつつ、御様おんさまやつし、いやしき下臈げらふのまねをして、日吉社ひとしのやしろに御参籠ごさんろうあッて、七日七夜なぬかななよが間、祈り申させ給ひけり。あらはれての御祈おんいのりには、百番の芝田楽しばでんがく、百番の一つ物、競馬、流鏑馬やぶさめ、相撲すまうおのおの百番、百座の仁王講にんわくこう、百座の薬師講、一?手半いつやくしゆはんの薬師百体、等身とうじんの薬師一体、並びに釈迦しやか阿弥陀あみだの像、おのおの造立ざうりふ供養せられけり。又御心中ごしんちゆうは三つの御立願ごりふぐわんあり。御心おんこころのうちの事なれば、人いかでか知り奉るべき。それに不思議なりし事は、七日なぬかに満まんずる夜よ、八王子の御社やしろにいくらもありける参人まいりうど共の中に、陸奥みちのくよりはるばるとのぼりたりける童神子わらはみこ、夜半計ばかりにはかにたえ入りにけり。はるかにかき出いだして祈りければ、程ほどなくいきいでて、やがて立ッて舞ひかなづ。人奇特きどくの思おもひをなして、是をみる。半時はんじばかり舞うて後、山王さんわうおりさせ給ひて、やうやうの御託宣ごたくせんこそおそろしけれ。 |
(口語訳) |
山門では、義綱処分のご裁断が遅れているので、日吉七社の神輿を根本中堂こんぽんちゅうどうに振り上げ申し、その御前で七日間大般若経だいはんにゃきょうを真読して、後二条関白殿をおのろい申した。最後の日の導師にはその頃まだ仲胤供奉ちゅういんぐぶと申した仲胤法印がなり、高座に上り鉦かねを打ち鳴らして、表白の詞ことばにいうことには、「我らを幼少の頃からお育てくださっている神さま方、後二条の関白殿に鏑矢かぶらや一本射当ててください。大八王子権現」と高らかに祈った。すぐその夜変事があった。八王子権現の御殿から鏑矢の音がして、宮中をめざして鳴って行くと、人々が夢に見たのである。その翌朝に関白殿の御所の御格子みこうしをあげたところ、たった今山から取ってきたように、露に濡れた樒しきみが一枝立っていたのは気味の悪い恐ろしい事であった。すぐ続いて山王のお咎とがめだといって、後二条の関白殿が重い病にかかられたので、母上、すなわち大殿(師実)の北の政所まんどころは非常にお嘆きになって、お姿をやつし身分を卑しい下臈げろうのまねをして、日吉神社にご参籠なさって、七日七夜の間お祈りなさった。表向きのお祈りでは、百番の芝田楽しばでんがく、百番の一つ物、競馬・流鏑馬やぶさめ・相撲すもうをそれぞれ百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一?手半いつちゃくしゅはんの薬師百体、等身の薬師一体、並びに釈迦・阿弥陀の像を、それぞれ造立し供養なさった。またご心中に三つのご立願があった。御心の内の事だから、他の人がどうしてお察しできようか。それに不思議であった事は、七日の満願の夜に、八王子権現のお社やしろに大勢いた参詣人どもの中に、奥州からはるばる上って来た童巫女わらわみこが、夜中頃にわかに気絶してしまった。はるかに離れた所にかつぎ出して祈ったところ、まもなく蘇生して、そのまま立ち上がって舞い出した。人々は不思議な事に思って、これを見た。巫女が半時ほど舞った後、山王がその巫女に乗り移られて、さまざまのご託宣があったのは恐ろしいことであった。 |
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