~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/11/13 ぐわん だて (一)
神輿しんよをば客人まらうとみやへいれ奉る。客人まらうとと申すは、白山妙理権現はくさんめうりごんげんにておはします。申せば父子ふし御中おんなかなり。先ず沙汰さた成否じやうふは知らず、生前しやうぜん御悦おんよろこび、只此事にあり。浦島うらしまが子の、七世しつせの孫にあへりしにも過ぎ、胎内たいないの者の、霊山りやうぜんの父を見しにもこえたり。三千の衆徒しゆとくびすを継ぎ、七社しちしや神人じんにんそでをつらね、時々じじ剋々こくこく法施ほつせ、祈念、言語道断の事どもなり。
山門の大衆、国司こくし加賀守かがのかみ師高もろたかを流罪に処せられ、目代もくだい近藤こんどうの>判官師経ほうぐわんもろつねを禁獄せらるべき由、奏聞そうもんすといへども、御裁断ごさいだんおそかりければ、さもしかるべき公卿くぎやう殿上人てんじやうびとは、「あはれとく御裁許ごさいきよあるべきものを。昔より山門の訴訟は他に異なり。大蔵卿おおくらのきやう為房ためふさ太宰権帥だざいのごんのそつ季仲すえなかは、さしも朝家てうか重臣ちようしんなりしかども、山門の訴訟によって、流罪せられきに、いはん師高もろたかなどは、事の数にやはあるべきに、子細しさいにや及ぶべき」と申しあはれけれども、大臣たいしんろくを重んじていさくめず、小臣せうしんは罪に恐れて申さずと云ふことなれば、おのおのは口をとぢ給へり。
(口語訳)
神輿しんよ客人まろうどの宮へお入れ申し上げる。客人の宮と申すのは祭神が白山妙理権現みょうりごんげんでいらっしゃる。いってみれば白山中宮とは父子の御仲である。まず今度の訴訟が成るかどうかはわからぬが、生前父子であった二神はただこの御対面の事を喜ばれた。それは浦島うらしま の子が七世の孫に会った時にもまさっており、母の胎内にいて父の釈迦が出家したのを知らぬ羅睺羅らごら霊鷲山りょうじゅせんの父に会った時の喜びにもまさっていた。山門三千の衆徒がひっきりなしに続き、山王七社の神官が集まって時々刻々に誦経ずきょう・祈念をするのは、なんとも言い表せぬほどの騒ぎであった。
山門の大衆は、国司加賀守師高もろたかを流罪に処し、目代もくだい近藤判官師経もろつねを禁獄になさるべきよしを奏上したが、ご裁決が遅かったので、ほんとうにしっかりした公卿・殿上人は、「ああ、早くご裁決あるべきなのに。昔から山門の訴訟は他とは違うのだ。大蔵卿為房ためふさ・太宰権帥季仲すえなかはあんなに朝廷の重臣だったけれども、山門の訴訟によって流罪にされた。まして師高などは物の数でもないのに、あれこれ穿鑿せんさくする必要があろうか」とみんな申しておられたが、大臣たいしんは自分の禄を大事にして、いさめなければならないような時でも諫めず、小臣は罪になるのを恐れて何も言わないというのが普通の事なので、めいめい口を閉じ、黙っておられた。
賀茂かもがはの水、双六すごろくさい山法師やまぼふし。是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河院しらかはのゐんも仰せなりけるとかや。鳥羽院とばゐんの御時、越前ゑちぜん平泉寺へいせんじを山門へつけられけるのは、「当山たうざん御帰依ごきえあさからざるによッて、非をもッて理とす」とこそ宣下せんげせられて院宣を下されけれ。江帥がうぞつ匡房卿きやうばうのきやうの申されしやうに、「神輿しんよ陣頭ぢんどうへふり奉ッて、うッたへ申さんには、君はいかが御ばからひ候べき」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし」とぞ仰せける。
んじ嘉保かほう二年三月二日、美濃守みののかみみなもとの義綱よしつなの朝臣あッそん当国新立たうごくしんりふしやうたふすあひだ、山の久住者くぢゆうしや円応ゑんおう殺害せつがいす。是によッて日吉ひよし社司しやし延暦寺えんりやくじ寺官じくわん、都合丗余人申文まうしぶみをささげて、陣頭ぢんどうへ参じけるを、二条関白殿にでうくわんぱくどの大和源氏やまとげんじ中務なかつかさの権少輔ごんのせう頼春よりはるに仰せてふせがせらる。頼春が郎等らうどうをはなつ。やにはに射ころさるる者八人、きずかうむる者十余人、社司、諸司しよし、四方へ散りぬ。山門の上綱等じやうかうら子細しさい奏聞そうもんの為に、下洛げらくすときこえしかば、武士ぶし検非違使けびゐし西坂本にしさかもとせ向ッて、皆おッかへす。
(口語訳)
「賀茂川の水、双六すごろくさい、山法師。これが自分の思うようにならぬもの」と、白河院も言われたとかいうことだ、鳥羽院の御代に、越前国の平泉寺へいせんじを山門の末寺にされた時には、「この比叡山を深く信仰なさっているゆえ、非をもって理とす」と宣下せんげされて、院宣を下されたのであった。太宰権帥大江匡房卿が為房の事件の際、申されたことには、「神輿を陣頭に振り立て申して、訴え申したなら、君はどのようにおはからいになりましょう」と申されたところ、「まことに山門の訴訟はそのままほうっておけない」と白河院は言われた。
去る嘉保かほう二年三月二日、美濃守源義綱よしつな朝臣が美濃国に新しくできた荘園を廃止しようとして、比叡山に長く住んでいた円応えんおうを殺害した。この事によって、日吉社の神官、延暦寺の寺官、合せて三十余人が義綱の処分を要求する訴状をささげて、陣頭へ参ったのを、後二条関白殿(師道)大和源氏やまとげんじ中務権少輔頼春よりはるに仰せつけて防がせられた。頼春の郎等が矢を放つ。その場で射殺される者八人、傷を受ける者十余人、神官・寺官らは四方へ散った。山門の上席の僧らが子細を奏上するために、比叡山ひえいざんから都へ下りて来るということだったので、武士・検非違使は西坂本に馳せ向かい、皆追い返した。
Next