~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/11/09 しゆん くわんの がは いくさ (一)
法性寺ほつしようじ執行しゆぎやうと申すは、京極きやうごく源大納言げんだいなごん雅俊卿がしゆんきやうの孫、木寺きでら法印ほういん寛雅くわんがには子なりけり。祖父そぶ大納言、させる弓箭ゆみやをとる家にはあらねども、余りに腹あしき人にて、三条坊門さんでうぼうもん京極きやうごくの宿所のまへをば、人をもやすく通さず、常は中門ちゆうもんにたたずみ、歯をくひしばりいかッてぞおはしける。かかる人の孫なればにや、此俊寛も僧なれども、心もたけくおごれる人にて、よしなき謀反むほんにもくみしけるにこそ。
新大納言しんだいなごん成親卿なりちかのきやうは、多田蔵人行綱をようで、「御辺ごへんをば、一方の大将だいしやうたのむなり。此事しおほせつるものならば、国をもしやうをも所望によるべし。弓袋ゆぶくろれうに」とて、白布しろぬの五十たん、送られたり。
安元あんげん三年五日いつかのひ妙音院殿めうおんゐんどの太政大臣だじやうだいじんに転じ給へるかはりに、大納言だいなごん定房卿さだふさきやうをこえて、小松殿、内大臣ないだいじんになり給ふ。大臣の大将だいしやうめでたかりき。やがて大饗だいきやうおこなはる。尊者そんじやには大炊御門おほひのもかど右大臣うだいじん経宗公つねむねこうとぞきこえし。いちかみこそ先途せんどなれども、父宇治うぢ悪左府あくさふ御例ごれいそのはばかりあり。
(口語訳)
この法性寺の執行俊寛と申す者は、京極の源大納言雅俊卿の孫にあたり、木寺きでらの法印寛雅かんがには子供であった。祖父の大納言はこれというほどの弓矢を取る武門の家ではないのだが、あまりにも怒りっぽい人で、三条坊門京極のやしきの前を、人もめったに通さないで、いつも中門にたたずんで、歯をくいしばって周囲をにらみつけておられた。こういう人の孫だからだろうか、この俊寛も僧侶だが、気性も激しくおごり高ぶった人で、それでつまらない謀反むほんにも関係したのであろう。
新大納言成親卿は多田蔵人行綱を呼んで、「そなたを一方の大将として頼みにしているのだ。こしこの計画が成功したものなら、国でも荘園でも望みどおりに与えよう。まず弓袋ゆぶくろの材料に」と言って、白布五十端をお贈りになった。
安元三年五日、妙音院殿(師長)が太政大臣に移られたあとに、大納言定房さだふさ卿を越えて、小松殿が内大臣になられる。大臣で大将とはめでたい事であった。すぐその披露ひろうの宴会が行われた。主賓しゅひんには大炊御門おおいのみかどの右大臣経宗つねむね公がなられたという事であった。師長もろながの家は左大臣が昇進の限度なのだが、父の宇治の悪左大臣(頼長)保元ほうげんの乱を起こされた先例があるので、それをはばかって左大臣にならず太政大臣に任じられたのである。
北面ほくめん上古しやうこにはなかりけり。白河院しらかはゐんの御時、はじめおかれてより以降このかた衛府えふどもあまた候ひけり。為俊ためとし盛重もりしげわらはより千手丸せんじゆまる今犬丸いまいぬまるとて、是等は左右さうなききり者にてぞありける。鳥羽院とばのゐんの御時も、季教すえのり季頼すえより父子ふし共に、朝家てうかに召しつかはれ、伝奏てんそうするをりもありなんどきこえしかども、皆身のほどをばふるまうてこそありしに、此御時の北面ほくめんともがらは、以ての外に過分にて、公卿くぎやう殿上人をも者ともせず、礼儀礼節もなし。下北面げほくめんより上北面じやうほくめんにあがり、上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる心どもも出できて、よしなき謀反むほんにもくみしけるにこそ。中にも故少納言こせうなごん信西しんせいがもとに召しつかひける師光もろみつ成景なりかげといふ者あり。師光は阿波国あはのくに在庁ざいちやう、成景は京の者、熟根じゆくこんいやしき下臈げらふなり。健児童こんでいわらは、もしは恪勤者かくごんしやなんどにて召しつかはれけるが、さかざかしかりしによッて、師光は左衛門尉さゑもんのじよう、成景は右衛門尉うゑもんのじようとて、二にん一度に、靫負尉ゆきへのじようになりぬ。信西しんせい事にあひし時、二人共に出家して、左衛門入道さゑもんにふだう西光さいくわう右衛門入道うゑもんにふだう西敬さいけいとて、是等は出家の後も院の御倉預みくらあづかりにてぞありける
(口語訳)
北面の武士は昔はなかった。白河院の御代に、初めて設置されて以来、六衛府ろくえふの者どもが大勢北面の武士として伺候しこうした。為俊ためとし盛重もりしげは少年の時から千手丸せんじゅまる今犬丸いまいぬまるといって仕えており、これらの者は並ぶ者もない切れ者であった。鳥羽院の御代にも、李教すえのり李頼すえより父子ともに朝廷に召し使われ、上皇に申し上げる事を取り次ぐ折もあるなどといううわさだったが、皆身分相応にふるまっていたのに、この御代の北面の連中はとんでもないぐらい分際以上のふるまいをし、公卿・殿上人もものともせず、礼儀礼節もない。下北面げほくめんから上北面じょうほくめんに上がり、上北面からさらに殿上人に昇進し殿上の交際を許される者もある。こういうことがいつも行われたので、おごり高ぶる心なども出て来て、つまらない謀反にも一味したのであろう。中でも故少納言信西の所で召し使っていた師光もろみつ成景なりかげという者がいた。師光は阿波の国司の庁の役人、成景は京の者で、素性の卑しい下臈げろうである。健児童こんでいわらわもしくは恪勤者かくごんしゃなどとして召し使われていたが、才気ばしった者だったから、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉と、二人一度に衛門府の尉になった。信西が平治の乱で殺された時に、二人とも出家して、左衛門入道西光さいこう・右衛門入道西敬さいけいといったが、彼らは出家後も院の御所の御倉預りの役で仕えていた。
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