さる程に、嘉応 元年七月十六日、一院 いちゐん御出家あり。御出家の後も、万機ばんきの政まつりごとをきこしめされしあひだ、院内ゐんうちわく方なし。院中ゐんぢゆうにちかく召しつかはるる公卿くぎやう殿上人てんじやうびと、上下の北面ほくめんにいたるまで、官位、俸禄ほうろく皆身にあまる計ばかりなり。されども人の心のならひなれば、猶なほあきだらで、「あッぱれ其人のほろびたらば、其国はあきなむ。其人うせたらば、其官になりなん」なんど、うとからぬどちは、寄りあひ寄りあひささやきあへり。法皇も内々ないない仰せなりけるは、「昔より代々の朝敵をたひらぐる者、おほしといへども、いまだか様やうの事なし。貞盛さだもり、秀郷ひでさとが将門まさかどをうち、頼義らいぎが貞任さだたふ、宗任むねたふをほろぼし、義家ぎかが武衡たけひら、家衡いへひらをせめたりしても、勧賞けんじやうおこなはれし事、受領じゆりやうには過ぎざりき。清盛きよもりがかく心のままにふるまふこそ、しかるべからね。是も世末になッて、王法わうぼふのつきぬる故ゆゑなり」と仰せなりけれども、ついでなければ御いましめもなし。 |
(口語訳) |
さて嘉応かおう元年七月十六日に、後白河院は出家なさった。ご出家の後も、天下の政治をなさったので、院と内裏と区別がつかない。院中に近く召し使われる公卿・殿上人から上下の北面の武士にいたるまで、官位、俸給はみな身にあまるほどであった。けれども人の気持ちの習性なので、それでもやはり満足しないで、「ああ、誰それが滅びたなら、その国はあくだろう。誰それが死んだら、その官になろう」などと、親しい仲間同士は寄り合い寄り合いささやきあった。後白河法皇も内々に言われたことには、「昔から代々の朝敵を平らげた者が多いといっても、まだこんな事はなかった。平貞盛さだもり・藤原秀郷ひでさとが平将門まさかどを討ち、源頼義が阿部貞任さだとう・宗任むねとうを滅ぼし、源義家が清原武衡たけひら・家衡いえひらを攻めた時も、褒賞ほうしょうが行われたが、その褒賞は国司以上には至らなかった。清盛がこのように思うままにふるまうのは、よろしくない。これも世が末になって、王法が尽きたからである」と言われたけれども、よい機会がなかったので、御戒めもなかった。 |
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平家も又、別して朝家てうかを恨み奉る事もなかりしほどに、世の乱れそめける根本こんぽんは、去いんじ嘉応かおう二年十月十六日、小松殿こまつどのの次男、新三位しんざんみの中将ちゆうじやう資盛卿すけもりのきやう、其時はいまだ越前守ゑちぜんのかみとて十三になられけるが、雪ははだれにふッたりけり、枯野かれののけしき、誠に面白おもしろかりければ、若き侍さぶらひども丗騎ばかり召し具して、蓮台野れんだいのや紫野むらさきの、右近馬場うこんのばばにうち出でて、鷹たかどもあまたすゑさせ、うづら雲雀ひばりを、おッたておッたて、終日ひめもそにかり暮し、薄暮はくぼに及んで六波羅ろくはらへこそ帰られけれ。其時の御摂禄ごせふろくは、松殿まつどのにてましましけるが、中御門なかのみかど、東洞院ひがしのとうゐんの御所より御参内ごさんだいありけり。郁芳門いくほうもんより入御じゆぎよあるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門おほひのみかどを西へ御出ぎよしゆつなる。資盛朝臣すけもりのあそん、大炊御門おほひのみかど猪熊ゐのくまにて、殿下でんかの御出ぎよしゆつに、はなづきに参りあふ。御供の人々、「何者ぞ、狼藉らうぜきなり。御出ぎよしゆつのなるに、乗物よりおり候へおり候へ」といらでけれども、余りにほこりいさみ、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍さむらいども、皆廿より内の若者どもなり、礼儀骨法こつぱふ弁わきまへたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切いつせつ下馬の礼儀にも及ばず、かけやぶッてとほらむとするあひだ、くらさは闇くらし、つやつや入道の孫まごとも知らず、又少々は知ったれども、そら知らずして、資盛朝臣すけもりあそんをはじめとして、侍さぶらひども皆馬よりとッて引きおとし、頗すこぶる恥辱に及びけり。資盛朝臣、はふはふ六波羅ろくはらへおはして、祖父おほぢの相国しやうこく禅門ぜんもんに、此由うッたへ申されければ、入道大きにいかッて、「たとひ殿下てんがなりとも、浄海じやうかいがあたりをはばかり給ふべきに、をさなき者に、左右なく恥辱をあたへられけるこそ、遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。此事思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばや」と宣へば、重盛卿すげもりのきやう申されけるは、「是は少しも苦しう候まじ。頼政よりまさ、光基みつもとなんど申す源氏げんじ共どもにあざむかれて候はんには、誠に一門の恥辱でも候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、殿の御出ぎよしゆつに参りあひて、乗物よりおり候はぬこそ、尾籠びろうに候へ」とて、其時そのとき事にあたうる侍さぶらひども、召し寄せ、「自今じこん以後も、汝等なんぢら、能よく能よく心得こころうべし。あやまッて殿下てんがへ無礼の由を申さばやとこそ思へ」とて、帰られけり。 |
(口語訳) |
平家も又特に朝廷をお恨みする事もなかったが、そのうちに世の乱れ始めた根本は次のようなことからである。去る嘉応二年十月十六日、小松殿の次男、新三位中将資盛すけもり卿が、当時はまだ越前守といって十三になられたが、雪はうっすらと降っていたし、枯野の景色がまことに興味深かったので、若い侍どもを三十騎ほど連れて、蓮台野れんだいのや紫野むらさきの、右近馬場うこんのばば
に行って、鷹たかを多く持って行かせ、その
鷹を放して鶉うずら・雲雀ひばりを追い立て追い立て、終日狩りをして、夕暮れになって六波羅へ帰られた。その時の摂政は松殿(基房)でいらっしゃったが、中御門なかのみかど、東洞院ひがしのとういんの御所から参内さんだいなさった。郁芳門ゆうほうもんより内裏におはいりになる予定で、東洞院を南へ行き、大炊御門おおいのみかどを西へお出でになった。資盛すけもり朝臣は、大炊御門猪熊いのくまで、松殿のおでましに、ぱったりと出会った。摂政のお供の人々が、「何者だ、無礼であるぞ。おでましだから、乗物から降りなさい、降りなさい」とせきたてたが、あまりに平氏の威勢を自慢して勇み立って、世間を何とも思っていなかったうえに、召し連れた侍どもが皆二十はたち以内の若者どもだし、礼儀作法をわきまえた者は一人もいない。殿下のおでましも問題にせず、いっさい下馬げばの礼をとることもなく、駆け破って通ろうとしたので、暗くなってはいたし、全然入道相国の孫とも知らないので、また少しは知っている者がいても、空とぼけて知らないふりをして、資盛朝臣をはじめ、侍どもを皆馬から引き落とし、たいそう恥をかかせた。資盛朝臣は、やっとのことで六波羅へ行かれて、祖父の入道相国に、この事を訴えられたので、入道は大変怒って、「たとえ殿下であろうとも、浄海の周辺をおはばかりになるべきなのに、幼い者に、何かの事もなく恥をかかせたのは、遺恨なことである。こういう事からして、人にはばかにされるのだ。この事を殿下に思い知らせてあげなくては、おられないぞ。殿下へのお恨みをはらしたいものだ」と言われると、重盛卿が申されるには、「これは少しも気にすることはありません。頼政よりまさ・光基みつもとなどと申す源氏どもにばかにされましたような際には、たしかに平家一門の恥でもございましょう。重盛の子供とあろう者どもが、殿下のおでましに出会って、乗物から降りないのこそ、無作法です」と言って、その時、事件に関係した侍どもを呼び寄せて、「今後も、お前たちはよくよく心得るがよい。まちがって殿下へ無礼を働いた事を、私の方からおわびしたいと思っている」と言って帰られた。 |
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