~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/11/01 殿 てんがの のり あひ (二)
其後入道相国、小松殿には仰せられもあはせず、片田舎かたゐなかさぶらひどもの、こはらかにて、入道殿の仰せよりほかは、又おそろしき事なしと思ふ者ども、難波なんば瀬尾せのををはじめとして、都合六十余人召し寄せ、「きたる廿一日、主上しゆしやう御元服ごげんぷくの御さだめの為に、殿下てんが御出あるべかむなり。いづくにても待ちうけ奉り、前駆ぜんぐ御随身みずいじんどもがもとどりきッて、資盛すけもりが恥すすげ」とぞ宣ひける。殿下是をば夢にもしろしめさず、主上明年みやうねん御元服、御加冠ごかくわん拝官はいくわんの御さだめの為に、御直盧ごちよくろしばら御座ござあるべきにて、常の御出よりもひきつくろはせ給ひ、今度は待賢門たいけんもんより入御じゆぎよあるべきにて、中御門なかのみかどを西へ御出なる。猪熊堀河いのくまほりかはへんに、六波羅のつはものども、ひたかぶと三百余騎、待ちうけ奉り、殿下を中にとりめ参らせて、前後より一度に時をどッとぞつくりける。前駆御随身どもが今日けふをはれとしやうぞいたるを、あそこ追つかけ、ここに追つつめ、馬よりとッて引きおとし、散々さんざん陵礫れうりやくして、一々にもとどりをきる。随身ずいじん十人がうち、右の府生ひしやう武基たけもとがもとどりもきられにけり。其中にとう蔵人大夫くらんどのたいふ隆教たかのりがもとどりをきるとて、「是はなんじがもとどりと思ふべからず。しゆうのもとどりと思ふべし」と、いひふくめきッてんげり。其後は御車おんくるまの内へも、弓のはずつきいれなんどして、すだれかなぐりおとし、御牛おうししりがい胸懸むながけきりはなち、かく散々さんざんにしちらして、よろこびの時をつくり、六波羅へこそ参りけれ。入道、「神妙しんぺうなり」とぞ宣ひける。御車ぞひには、因幡いなばのさい使づかひ鳥羽とば国久丸くにひさまると云ふをのこ下臈げらふなれどもなさけある者にて、泣く泣く御車つかまッて、中御門なかのみかどの御所へ還御くわんぎよなし奉る。束帯そくたいの御そでにて、御涙をおさへつつ、還御の儀式あさましさ、申すもなかなかおろかなり。大織冠たいしよくわん淡海公たんかいこうの御事はあげて申すに及ばず、忠仁公ちゆじんこう昭宣公せうぜんこうより以降このかた摂政せつしやう関白くわんぱくのかかる御目おんめにあはせ給ふ事、いまだ承り及ばず。これこそ平家の悪行のはじめなれ。
小松殿こまつどのこそ大きにさわがれけれ。ゆきむかひたるさぶらひども、皆勘当せらる。「たとひ入道いかなる不思議を下知げちし給ふとも、など重盛しげもりに夢をばみさせざりけるぞ。およそは資盛奇怪なり。栴檀は二葉よりかうばしとこそ見えたれ。既に十二三にならむずる者が、今は礼儀を存知してこそふるまふべきに、か様に尾籠を現じて入道の悪名をたつ。不幸のいたり、汝独りにあり」とて、暫く伊勢国におひ下さる。されば此大将をば、君も臣も、御感ありけるとぞきこえし。
(口語訳)
その後、入道相国は、小松殿に相談もなさらないで、片田舎かたいなかの侍どもで、武骨ぶこつで清盛入道の仰せ以外には、なた恐ろしい事はないと思う者どもを、難波なんば瀬尾せのおをはじめとして、総計六十余名召し寄せて、「きたる二十一日に、天皇御元服のお打ち合わせのために、殿下のおいでがあるはずだ。どこででも待ち受け申して、前駆ぜんぐ御随身みずいじんどものもとどりを切って、資盛の恥をそそげ」と言われた。殿下はこの事を少しも御存知なく、天皇の明年の御元服・御加冠ごかかん・拝官のお打合せのために、宮中の摂政大臣の宿所にしばらくいらっしゃる予定で、いつものいおいでよりも身だしなみをお整えになり、今度は待賢門たいけんもんから宮中におはいりになる予定で、中御門なかのみかどを西へおいでになった。猪熊堀河いのくまほりかわの辺に、六波羅ろくはらの兵士どもが、一同皆甲冑かっちゅうに身を固めて三百余騎、待ち受け申して、殿下を中に取り囲んで、前後から一度にときをどっとつくった。前駆・御随身どもが、今日こそ晴れの時と着飾っていたのを、あそこここに追いかけ追い詰めて、馬から引き落とし、さんざんに暴行を加えて、一人一人髷を切った。随身十人のうち、右近衛の府生武基たけもとの髷も切られてしまった。お供の中で藤蔵人大夫隆教たかのりの髷を切る際に、「これはお前の髷と思ってはならぬ。主人の髷と思え」と言い含めて切った。その後は、御車の内にも、弓の両端を突き入れたりして、車のすだれを引きずり落とし、御牛のしりがい・胸がいを切り放して、このようにさんざんにやりちらして、喜びのときの声をあげ、六波羅へ参った。入道は、「感心である」と言われた。御車ぞいには、因幡いなばの先使いの鳥羽とば国久丸くにひさまるという男が、身分は低いが思いやりのある者で、泣きながら御車に付き添って、中御門の御所へお帰し申し上げた。松殿(摂政)が束帯の御そでで御涙をおさえながら、お帰りになる儀式の興ざめなこと、言葉ではとても言い尽くせないくらいである。大織冠( 鎌足 かまたり )・淡海公(不比等ふひと)の御事は特に言うまでもなく、忠仁公(良房)昭宣公しょうぜんこう(基経)よりこのかた、摂政関白がこんな目におあいになった事は、まだ聞いたことがない。これこそ平家の悪行あくぎょうの始めであった。
小松殿は非常におあわてになった。出かけて行った侍どもを皆、叱責しっせき・追放なさった。「たとえ入道相国がどんなとんでもない事を命令なさっても、どうして重盛に夢ででも知らせなかったのか。だいたい資盛すけもりがけしからん。栴檀せんだんは二葉より芳しと言われている。すでに十二、三歳になろうとする者が、もう礼儀を心得てふるまうべきなのに、このように無礼をはたらいて入道相国の悪い評判を立てる。不幸至極、責任はお前一人にある」といって、しばらく伊勢いせ国に資盛を追いやられた。だからこの大将(重盛)を、君も臣も感心なさったということであった。