~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/10/20 だいの きさき (一)
昔より今に至るまで、源平両氏、朝家てうかに召しつかはれて、王化わうかにしたがはず、おのづから朝権てうけんをかろむずる者は、たがひにいましめをくはへしかば、の乱れもなかりしに、保元ほうげん為義ためよしきられ、平治へいぢ義朝よしともちゆうせられて後は、すゑずゑの源氏ども、あるいは流され、あるいはうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌はんじやうして、かしらをさし出だす者なし。いかならん末の代までも、何事かあらむとぞみえし。されども鳥羽院とばいん御晏駕ごあんかの後は、兵革ひやうがくうちつづき、死罪流刑るけい闕官けつくわん停任ちやうにん常におこなはれて、海内かいだいもしづかならず、世間もいまだ落居らくきよせず。就中なかんづくに、永暦えいりやく応保おうほうころよりしていん近習者きんじゆしやをば、内より御いましめあり、内の近習者をば院よりいましめらるる間、上下おそれをののいて、やすい心もなし。ただ深淵しんえんにのぞむで、薄氷はくひようをふむに同じ。主上しゆしやう上皇しやうくわう父子ふしおんあひだには、何事の御へだてかあるべきなれども、おもひほかの事どもありけり。是も世澆季げうきに及んで、人梟悪けうあく をさきとする故なり。主上、院の仰せを常に申しかへさせおはしましける中にも、人、耳目じぼくを驚かし、世もッて大きにかたぶけ申す事ありけり
(口語訳)
昔から今に至るまで、源平両氏が朝廷に召し使われて、君王の徳化に従わないで、たまたま朝権を軽んずる者には、お互いに戒めを加えたので、世の乱れもなかったが、 保元ほうげんの乱で為義ためよしが斬られ、平治へいじの乱に義朝よしともが討たれて後は、源氏の末流の者たちは、流されたり、殺されたりして、今は平家の一党ばかりが栄えて、頭を差し出す者もない。どんな末の代までも、何事も起こるまいと思われた。けれども鳥羽とば院がお亡くなりになった後は、戦乱が続き、死罪・流罪や解官げかん停任ちょうにんが常に行われて、国内も平穏でなく、世間もまだ落ち着かない。とりわけ永暦えいりゃく応保おうほうの頃から後白河院ごしらかわいん近習きんじゅの者を二条天皇の方からお戒めになり、天皇の近習の者を院の方からお戒めになったので、誰もかれも恐れおののいて、心も落ち着かない。全く深い淵に臨んで薄い氷の上を踏み歩くように、戦々せんせん兢々きょうきょうとしていた。天皇・上皇 (院) の父子の御間には、何の疎隔もあるはずはないのだが、案外な事などがあった。これも世が末世になって、人が猛悪な事を第一とするからである。天皇は、院の仰せにいつも反対しておられたが、その中でも特に人が見聞してびっくりし、世間の人々がその事でたいそう批難申すことがあった。
近衛院 こんゑのいん きさき 太皇太后宮 たいくわうたいこくう と申ししは、 大炊御門 おほひのみかど 右大臣 うだいじん 公能公 きんよしこう の御娘なり。 先帝 せんてい におくれ奉らせ給ひて後は、 九重 ここのへ の外、 近衛河原 このゑかはら の御所にぞうつり住ませ給ひける。さきの后宮きさいのみやにて、かすかなる御有様ありさまにてわたらせ給ひしが、永暦えいりやくのころほひは、御年廿二三にもやならせ給ひけむ、御さかりもすこし過ぎさせおはしますほどなり。しかれども、天下てんか第一の美人の聞こえましましければ、主上しゆしやふ色にのみそめる御心にて、ひそ高力士かうりよくしぜうじて、外宮ぐわいきゆうにひき求めしむるに及んで、此大宮おほみや御艶書ごえんしよあり。大宮敢へてきこしめしもいれず。さればひたすらはや穂にあらはれて、きさき入内じゆだいあるべき由、右大臣家うだいじんげに宣旨を下さる。此事天下てんかにおいてことなる勝事しようしなれば、公卿僉議くぎやうせんぎあり、おのおの意見をいふ。「先ず異朝の先蹤せんじようをとぶらふに、震旦しんだん則天皇后そくてんくわうごうは、たう太宗たいそうきさき高宗皇帝かうそうくわうてい継母けいぼなり。太宗崩御ほうぎよの後、高宗の后にたち給へる事あり。是は異朝の先規せんきたる上、別段べつだんの事なり。しかれども吾朝わがてうには、神武天皇じんむてんわうより以降このかた人皇にんわう七十余代に及ぶまで、いまだ二代の后にたたせ給へる例をきかず」と、諸卿しよぃやう一同いちどうに申されけり。上皇もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上仰せなりけるは、「天子に父母ふぼなし。われ十善じふぜん戒功かいこうによッて、万乗ばんじやう宝位ほうゐをたもつ。是程これほどの事、などか叡慮えいりよまかせざるべき」とて、やがて御入内ごじゅだいの日、宣下せんげせられける上は、力及ばせ給はず。
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