~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/10/23 だいの きさき (二)
大宮かくときこしめされけるより、御涙おんなみだにしずませおはします。先帝におくれ参らせし久寿きうじゆの秋のはじめ、同じ野原のばらの露とも消え、家をも出で世をのがれたりせば、今かかるうき耳をば聞かざらましとぞ、御歎おんなげききありける。父の大臣おとどこしらへ申させ給ひけるは、「『世にしたがはざるをもッて、狂人とす』とみえたり。すで詔命ぜうめいを下さる。子細しさいを申すに所なし。ただすみやかに参らせ給ふべきなり。もし皇子わうじ御誕生ありて、君も国母こくもといはれ、愚老も外祖とあふがるべき、瑞相ずいさうにてもや候らむ。是ひとへに愚老をたすけさせおはします、御孝行ごかうかうおんいたりなるべし」と申させ給へども、御返事おんぺんじもなかりけり。大宮其比そのころなにとなき御手習おんてならひついでに、
うきふしに 沈みもやらで かは竹の 世にためしなき 名をやながさん
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀れにやさしきためしにぞ、人々申しあへりける。
(口語訳)
大宮はこうだと、入内宣下の事をお聞きになって以来、御涙に沈んでいらっしゃる。先帝に先立たれ申した久寿の秋の初め、先帝と一緒に死に、あるいは出家・遁世とんせいでもしていたら、今こんな悲しい事を聞かなかったろうにと、お嘆きになった。父の右大臣はなだめすかして申されるには、「『世間の習いに従わないのを、狂人とする』と古典に見えている。すでに勅命をお下しになったのだ。どうこう申す余地がない。ただ早く参内なさるべきだ。ひょっとして皇子がご誕生になって、あなたも国母と言われ、私も外祖父と仰がれるようになる吉兆であるかもしれません。これは全く、この老人をお助けになるご孝行の至りでしょう」と、あれこれ申されたけれども、ご返事もなかった。大宮はその頃何という事もない御手習のついでに、
(帝が亡くなられた悲しい折に死にもしないで世に生きながらえて、世に例のない二代の后という名を流すのだろか。悲しい事だ)
と詠まれた。世間にどうして漏れたのだろうか、あわれに感慨深い例として、人々は言い合ったことであった。
すで御入内ごじゅだいの日になりしかば、父の大臣おとど供奉ぐぶ上達部かんだちめ出車しゆつしやの儀式なンど、心ことにだしたて参らせ給ひけり。大宮物うき御いでたちなれば、とみにも奉らず。はるかに夜もふけ、さもなかなばになッて後、御車おんくるまにたすけ乗せられ給ひけり。御入内の後は、麗景殿れいけいでんにぞましましける。ひたすらあさまつりごとをすすめ申させ給ふ御有様おんありさまなり。かの紫宸殿ししんでんの皇居には、賢聖げんじやうの障子をたてられたり。伊尹いいん鄭伍倫ていごりん虞世南ぐせいなん太公望たいこうぼう甪里先生ろくりせんせい李勣りせき司馬しば、手長足長、馬形むまがたの障子、鬼の、李将軍のすがたを、さながらうつせる障子もあり。尾張守をはりのかみ小野道風おのたうふうが、七廻賢聖しちくわいげんじやうの障子お書けるも、ことわりとぞみえし。かの清涼殿せいりやうでん画図ぐわと御障子みしやうじには、むかし金岡かなをかがかきたりし、遠山ゑんざん在明ありあけの月もありとかや。故院こいんのいまだ幼主ゆうしゆにてましましけるそのかみ、なにとなき御手おんてまさぐりのついでに、かきくもらかせ給ひしが、ありしながらにすこしもたがはぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋おんこいしくおぼしめされけむ。
思ひきや うき身ながらに めぐりきて おなじ雲井の 月を見むとは
其間そのあひだの御なからへ、いひ知らず哀れにやさしかりし御事なり
(口語訳)
もはやご入内の日になったので、父の右大臣はお供の公卿の事やいだぐるまの儀式などを特に注意を払って立派にお出しするようになさった。大宮は心の進まぬご出発なので、急にも車にお乗りにならない。ずっと夜も更け、夜半になってから、御車に人に助け乗せられてお乗りになった。ご入内の後は、麗景殿れいけんでんにおられた。そしてひたすら帝にあさまつりごとをお勧め申しておられるご様子である。あの紫宸殿ししんでんの皇居には、賢聖けんじょうの障子をお立てになってあり、伊尹いいん鄭伍倫ていごりん虞世南ぐせいなん太公望たいこうぼう甪里ろくり先生・李勣りせき司馬しばなどの肖像が描かれている。清涼殿せいりょうでんには手長足長を描いた荒海の障子や馬形の障子があり、鬼の間には白沢王はくたくおうの鬼をる絵、また陣の座には李将軍りしょうぐんの姿を、そのまま写した障子もある。尾張守おわりのかみ小野道風おののとうふうが、「七廻賢聖の障子を書く」と書いたのも道理と思われた。あの清涼殿の画図がとの御障子には、昔巨勢金岡こせのかなおかが描いた遠山の有明ありあけの月もあるということだ。近衛天皇がまだ幼君でいられたその当時、なんとなく御手なぐさみをなさるついでに、墨でよごして月を曇らせなさったが、それがその時のままで少しも変わっていないのを御覧になって、先帝のおられた昔を恋しくお思いになったのであろうか、次のようにまれた。
(情けない俗人のままで再びこの宮中に参って、かつて見たのと同じ御障子の月を見、宮中から空の月を見ようとは思いもしなかった)
近衛院と大宮との間のご交情は、なんとも言いようもないほど、しみじみとあわれに感慨深い御事である。