~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/10/20  わう (八)
祇王、「あはれいかに、仏御前と見奉るは。夢かやうつつか」といひければ、仏御前涙をおさへて、「かやうの事申せば、事新しうさぶらへども、申さずは又おもひ知らぬ身ともなりぬべければ、はじめよりして申すなり。もとよりわらはは推参の者にていだされて参らせさぶらひしを、祇王御前の申状まうしじやうによってこそ、召し返されてもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心にまかせずして、おしとぢめられ参らせし事、心ううこそさぶらひしか。いつぞや又、召され参らせて、今様いまやう歌ひ給ひしにも、思ひしられてこそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと、思ひしかば、うれしとはさらに思はず。障子しやうじに又、『いづれか秋にあはではつべき』と、書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひさぶらひしぞや。其後は在所ざいしよをいづくとも知り参らせざりつるに、かやうにさまをかへて、一所ひとところにと承つてのちは、あまりに浦山うらやましくて、常はいとまを申ししかども、入道殿にふだうどのさらに御用おんもちいましまさず。つくづく物を案ずるに、娑婆しやば栄花えいぐわは夢の夢、楽しみ栄えて何かせむ。人身にんじんは請けがたく仏教にはあひがたし。此度このたびないりに沈みなば、多生たしやう曠劫くわうごふをばへだつとも、うかびあがらん事かたし。年のわかきにたのむべきにあらず。老少不定らうせうふぢやうのさかひなり。出づる息の るをも待つべからず。かげろふいなづまよりなほはかなし。 一旦いつたんの楽しみにほこつて、後生ごしやうを知らざらん事のかなしさに、けさまぎれ出でてかくなつてこそ参りたれ」とて、かづきたるきぬをうちのけたるを見れば、尼になってぞ出できたる。
(口語訳)
祇王が、「あれはなんと、仏御前とお見受けしますが。夢ではないのかしら」と言うと、仏御前は涙をおさえて、「こんなことを申すと、わざとらしくはございますが、もうさなくてはまた人情をわきまえぬ身ともなってしまいますから、初めから申すのです。もともと私は推参の者で、追い出されましたのを、祇王御前のおとりなしによって召し返されたのでもございますのに、女のはかなさ、自分の身を思うにまかせないで、私だけが残されました事は、ほんとにつらい事でした。いつぞや又あなたがお召しを受けて、今様いまようをお歌いになった時にも、つくづく思い知られたのでした。いつかはわが身の上になるだろうと思ったので、うれしいとはいっこうに思いません。ふすまにまた、『いづれか秋にあはではつべき』と書いておかれた筆の跡を見て、なるほどそうだと思った事でしたよ。その後はおいでの所をどことも存じませんでしたが、このように姿を変えて、同じ所にいらっしゃるとお聞きしてからは、あまりにうらやましくて、いつもお暇を願っていましたが、入道殿はどうしてもお許しくださいません。よくよくものを考えてみますと、現世の栄華は夢の中で夢を見るようなはかないもので、どんなに裕福になり栄えても何にもなりません。人間に生れる事は容易ではなく、そのうえ仏教にあう事はますます困難な事です。今度せっかく人間に生れながら仏教にもあわずうかうかと過ごして地獄に沈んだなら、どんなに多くの生を過ごし、長い時間を経ても、極楽浄土に浮かび上がる事は困難です。年の若いのを安心しているべきではありません。この世は老人も若者も、どちらが先に死ぬとも定まっていない所です。死は速やかにやって来て一呼吸の間も待ってくれません。蜻蛉かげろう稲妻いなずまよりもさらにはかないのです。一時の楽しみに得意になって、死後の世を知らないでいる事の悲しさに、今朝、やしきを忍び出てこうなって参りました」といって、かぶっていた衣を払いのけたのを見ると、尼になって出て来たのであった。
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