~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/10/20  わう (九)
「かやうにさまをかへて参りたれば、日比ひごろとがをばゆるし給へ。ゆるさんと仰せられれば、諸共もろともに念仏して、一つはちすの身とならん。それになほ心ゆかずは、是よりいづちへもまよひゆき、いかならんこけのむしろ、松が根にもたおれふし、命のあらんかぎり念仏して、往生の素懐をとげんと思ふなり」と、さめざめとかきくどけば、祇王涙をおさへて、「誠にわごぜの是ほどに思ひ給ひけるとは、夢にだに知らず。うき世の中のさがなれば、身のうきことこそ思ふべきに、ともすればわごぜの事のみうらめしくて、往生の素懐をとげん事かなふべしともおぼえず。今生こんじやうも後生も、なまじひにし損じたる心地にありつるに、かようにさまをかへておはしたれば、日比ひごろのとがは露塵つゆちりほどものこらず。今は往生うたがひなし。此度このたび素懐をとげんこそ、何よりも又うれしけれ。我身にも又思ひしか、さまをかふるもことわりなり。わごぜの出家にく今らぶれば、事のかずにもあらざりけり。わごぜはうらみもなしなげきもなし。今年ことしわづかに十七にこそなる人の、かやうに穢土ゑどいとひ、浄土をねがはんと、ふかく思ひ入れ給ふこそ、まことの大道心だいだうしんとはおぼえたれ。うれしかりける善知識かな。おざもろともにねがはん」とて、四人しにん一所いつしよにこもりゐて、朝夕あさゆふ仏前に花香はなかうをそなへ、余念なくねがひければ、遅速こそありけれ、四人の尼ども、皆往生の素懐をとげるとぞきこえし。されば後白河ごしらかはのspan>法皇はふわう長講堂ちやうごうだうの過去帳にも、「祇王ぎわう祇女ぎによほとけ、とぢらが尊霊そんりやう」と、四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。
(口語訳)
このように尼になって参りましたので、日頃の罪科をお許しください。許そうと言われるなら、一緒に念仏を唱えて、極楽浄土の同じはちすの上に生れましょう。それでもまだ気がすまないのなら、ここからどこへでも迷って行き、どんな所でもこけのむしろや松の根にでも倒れ伏し、命ある限り念仏を唱えて、極楽往生の本望をとげようと思うのです」と、さめざめと涙を流してくどいたので、祇王は涙をこらえて、「ほんにあなたがこれほど思っておられたとは夢にも知りませんでした。つらい世の中のさがで、そしてその嵯峨にいる事ゆえ、私の身が不運なのだと思うべきですのに、ややもするとあなたのことばかり恨めしくて、極楽往生の本望をとげられそうにありません。現世も来世も、中途半端でやりそこなった気持ちでいたのに、このように姿を変えて来られたので、日頃の罪科は少しも残らず、恨みは全然ありません。今は極楽往生は疑いありません。今度かねての願いをとげる事は何よりもまたうれしい事です。私どもが尼になったのを、全く例のない事のように人にも言い、また私自身も思っていましたが。それは世間を恨み身の不幸を嘆いてのことですから、姿を変えるのも当然です。今度のあなたの出家に比べれば、問題にもならない事でした。あなたには何の恨みもなく嘆きもありません。今年やっと十七になる人が、このように現世をきらい、浄土に生れる事を願おうと深く思いつめておられるのこそ、真の大道心だいどうしんとは思われます。あなたは私にとってうれしい善知識ぜんちしきですね。さあ一緒に往生を願いましょう」と言って、四人同じ所に籠って、朝夕、仏前に花・香を供え、一心に往生を願ったので、死期に遅い早いの差はあったが、四人の尼たちは皆往生の本望をとげたという事であった。だから後白河ごしらかわ法皇の建てられた長講堂の過去帳にも、「祇王・祇女・仏・とじ・・らの尊霊」と、四人同じ所に書き入れられた。まことに感慨深く尊い事であった。