~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/10/06 わが みの えい ぐわ (一)
吾身の栄花をきはむるのみならず、一門とも繁昌はんじやうして、嫡子重盛しげもり内大臣ないだいじん左大将さだいしやう、次男宗盛むねもり中納言ちゆうなごんの右大将、三男知盛とももり三位さんみの中将ちゆうじやう嫡孫ちやくそん維盛これもり四位しゐの少将せうしやう、すべて一門の公卿くぎやう十六人、殿上人でんじやうびと丗余人、諸国の受領じゆりやう衛府ゑふ諸司しよし、都合六十余人なり。世には又人なくぞ見えられける。
奈良なら御門みかど御時おんとき神亀じんき五年、朝家てうか中衛ちゆうゑ大将だいしやうをはじめおかれ、大同だいどう四年しねんに、中衛を近衛こんゑと改められしよりこのかた、兄弟左右さうに相並ぶ事、わづかに三四箇度かどなり。
文德天皇もんどくてんわうの御時は、ひだん良房よしふさ右大臣うだいじん左大将さだいしやう、右に良相よしあふ大納言だいなごんの右大将、是は閑院かんゐんの左大臣、冬嗣ふゆつぎ御子おんこなり。朱雀院しゆしやくゐん御宇ぎようには、左に実頼さねより小野宮殿をののみやどの、右に師資もろすけ九条殿くでうどの貞信公ていじんこうの御子なり。後冷泉院ごれいぜいゐんの御時は、左に教通のりみち大二条殿おほにでうどの、右に頼宗よりむね堀河殿ほりかはどの御堂みだう関白くわんぱくの御子なり。二条院の御宇ぎようには、左に基房もとふさ松殿まつどの、右に兼実かねざね月輪殿つきのわどの法性寺殿ほふすやうじどのの御子なり。是皆摂禄せふろくの臣の御子息ごしそく凡人ぼんじんにとりては、其例そのれいなし。殿上てんじやうまじはりをだにきらはれし人の子孫にて、禁色雑袍きんじきざつぽうをゆり、綾羅錦繡りようらきんしうを身にまとひ、大臣の大将だいじやうになッて、兄弟左右さうに相並ぶ事、末代とはいひながら、不思議なりし事どもなり。
(口語訳)
清盛自身が栄華を極めるだけでなく、その一門が揃って繁栄して、嫡子重盛しげもりは内大臣で左大将、次男宗盛むねもりは中納言で右大将、三男知盛とももり三位さんみの中将、嫡孫維盛これもり四位しいの少将となり、全部で一門の公卿くぎょうは十六人、殿上人てんじやうびとは三十余人、諸国の受領や衛府えふの役人、諸官など総計六十余人に及んだ。世には平氏のほかにはまた人がないというほどのご様子であった。
聖武しょうむ天皇の御代、神亀じんき五年に朝廷に中衛ちゅうえの大将を初めてお置きになり、大同だいどう四年に中衛を近衛こんえとお改めになったが、それ以来今までに、兄弟が左右に大将として並ぶ事は、わずか三、四度にすぎない。文德天皇の御時は、左に良房よしふさが右大臣で左大将、右に良相よしおうが大納言で右大将であり、ともに閑院の左大臣冬嗣の御子である。朱雀すざく天皇の御代には、左大将に実頼さねよりすなわち小野宮殿おののみやどの、右大将に師輔もろすけすなわち九条殿がおられたが、ともに貞信公ていじんこうの御子である。後冷泉ごれいぜい天皇の御代には、左に教通のりみちすなわち大二条殿おおにじょうどの、右に頼宗よりむねすなわち堀河殿がおられたが、この二人は御堂関白道長みちながの御子である。二条天皇の御代には、左に基房もとふさすなわち松殿まつどの、右に兼実かねざねすなわち月輪殿つきのわどのがおられたが、この二人は法性寺殿ほうしょうじどの忠通ただみちの御子である。これらはすべて摂政家のご子息であって、摂家せっけ清華せいか以外の凡人ではその例がない。殿上の交わりをきらわれた人の子孫で、禁色きんじき雑袍ざっぽうを許され、華美な服装を身にまとい、大臣兼大将になって、兄弟が左右大将に並ぶことは、末代とはいいながら、思いもよらぬ珍しい事であった。
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