~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~ |
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==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館 |
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2018/10/08
吾 身みの 栄えい 花ぐわ
(二)
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其外そのほか御娘おんむすめ八人おはしき。皆とりどりに幸さいはひ給へり。一人いちにんは、桜町さくらまちの中納言ちゆうなごん成範卿しげのりのきやうの北の方にておはすべかりしが、八歳の時、約束計ばかしにて、平治へいぢの乱みだれ以後、ひきちがへられ、花山院くわさんのゐんの左大臣殿の御台盤所みだいはんどころにならせ給ひて、君達きんだちあまたましましけり。
抑そもそも此成範卿を、桜町の中納言と申しける事は、すぐれて心数寄すき給へる人にて、常は吉野山を恋ひ、町ちやうに桜を植ゑならべ、其内に屋を立てて、住み給ひしかば、来る年の春ごとに、見る人、桜町とぞ申しける。桜は咲いて七箇日しちかにちに散るを、余波なごりを惜しみ、天照御神あまてるおほんがみに祈り申されければ、三七日さんしちにちまで余波ありけり。君も賢王にてましませば、神しんも神徳を耀かかやかし、花も心ありければ、廿日はつかの齢よはひをたもちけり。一人いちにんは后きさきに立たせ給ふ。皇子わうじ御誕生ごたんじやうありて、皇太子くわうたいしに立ち、位につかせ給ひしかば、院号ゐんがうかうぶらせ給いひて、建礼門院けんれいもんいんとぞ申しける。入道にふだう相国しやうこくの御娘おんむすめなるうへ、天下てんかの国母こくもにてましましければ、とかう申すに及ばず。一人いちにんは六条の摂政殿の北きたの政所まんどころにならせ給ふ。高倉院たかくらのゐん、御在位の時、御母代おんばはじろとて、准三后じゅんさんごうの宣旨せんじをかうぶり、白河殿しらかはどのとて重き人にてましましけり。一人いちにんは普賢寺殿ふげんじどのの北の政所にならせ給ふ。一人いちにんは冷泉大納言れいぜいのだいなごん隆房卿りゆうはうのきやうの北の方、一人は七条しちでうの修理大夫しゆうりのだいぶ信隆卿のぶたかきやうに相あひ具ぐし給へり。又安芸国あきのくに厳島いつくしまの内侍ないしが腹に一人おはせしは、後白河ごしらかはの法皇はふわうへ参らせ給ひて、女御にようごのやうにてぞましましける。其外そのほか九条院くでうのゐんの雑仕ざふし、常葉ときはが腹に一人、是は花山院殿くわざんのゐんどのに、上臈じやうらふ女房にようばうにて、廊らうの御方おかたとぞ申しける。
日本につぽん秋津島あきつしまは、纔わづかに六十六箇国かこく、平家知行ちぎやうの国、丗余箇国、既すでに半国はんごくにこえたり。其外庄園しやうえん田畠でんばく、いくらといふ数を知らず。綺羅きら充満して、堂上たうしやう花の如し。軒騎けんき群衆くんじゆして、門前市いちをなす。
楊州やうしうの金こがね、荊州けいしうの珠たま、呉郡ごきんの綾あや、蜀江しよくかうの錦にしき、七珍万宝しつちんまんぽう、一つとして闕かけたる事なし。歌堂かたう舞閣ぶかくの基もとゐ、魚龍ぎよりよう爵馬しやくばの翫もてあそびもの、恐らくは帝闕ていけつも仙洞せんとうも是には過ぎじとぞみえし。 |
(口語訳) |
清盛には、そのほか御娘が八人いらっしゃった。みなそれぞれ栄えておられた。
一人は桜町の中納言成範しげのり卿の北の方になられるはずであったが、八歳の時に結婚の約束をなさっただけで、平治の乱で成範卿が下野しもつけ国へ流された後、引き離されて、花山院の左大臣殿の奥方におなりになって、若君たちが大勢おありになった。いったいこの成範卿を桜町の中納言と申したのは、この成範卿は特に風流心を持っておられた人であって、いつも吉野山の桜を恋い慕い、一町に桜を植えならべ、その中に家屋を建てて住まれたので、年年の春ごとにその桜を見る人々が、桜町と申した。桜は咲いて七日で散るのを、名残なごりを惜しんで、天照大神あまてらすおおみかみにもっと散らないで残っているようにとお祈り申されたので、二十一日まで桜が名残りをとどめていたのであった。君も賢王でいらっしゃるので、神も神徳を発揮したのであり、花も心があったから、成範卿の心に感じて二十日の命を保ったのであった。
一人は高倉天皇の后きさきにお立ちになる。皇子がご誕生になって、皇太子に立ち、即位せられたので、院号をお受けになって、建礼門院けんれいもんいんと申した。入道相国の御娘であるうえに、天下の国母でいらっしゃったので、その繁栄は何かと申すまでもないことである。
一人は六条の摂政殿の北きたの政所まんどころにおなりになる。高倉院がご在位の時に、ご養母として、准三后じゅんさんごうの宣旨をこうむり、白河殿といって重んぜられた人でいらっしゃった。
一人は普賢寺殿ふげんじどのの北政所におなりになる。一人は冷泉大納言隆房の北政所となり、一人は七条修理大夫信隆のぶたか卿に連れ添われた。また安芸あき国の厳島いつくしま神社の内侍の腹から生まれた娘が一人おられ、この方は後白河法皇のもとへと参られて、女御のようでいらっしゃった。そのほかに、九条院の雑仕、常葉ときわの腹に一人の娘があり、これは花山院殿の上臈じょうろう女房となって、廊ろうの御方おかたと申した。
日本秋津島は、わずかに六十六か国、その中で平家の支配した国は三十余か国で、ほとんど日本全国の半分以上である。そのほか荘園や田畑などはどれくらいという数もわかたないほどたくさんあった。平家の邸宅には華美な服装の人々がいっぱい集まって、御殿の上は花のように美しい。その門前には車馬がたくさん集まって、市をなす繁栄ぶりである。揚州ようしゅうの金、荊州けいしゅうの珠たま、呉郡ごきんの綾あや、蜀江しょっこうの錦にしきなどありとあらゆる珍しい財宝が集まり、何一つ欠けている物はない。歌舞をする御殿の基をなすものや、魚龍ぎょうりょう爵馬しゃくばの遊芸・玩もてあそびなど、あらゆるものが集められていて、おそらくは内裏も院の御所も、これ以上ではあるまいと思われた。 |
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