~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/09/27 殿てんじやうのやみうち (二)
忠盛御前ごぜんめしに舞はれければ、人々拍子をかへて、「伊勢いせ平氏へいじはすがめなりけり」とぞはやされける。この人々はかけまくもかたじけなく、柏原かしはばらの天皇てんわう御末おんすゑとは申しながら中比なかごろは都の住ひもうとうとしく、地下ぢげにのみ振舞ふるまひなッて、伊勢国いせのくに住国ぢゆうこくふかかりしかば、其国のうつは物に事寄せて、伊勢平氏とぞ申しける。其上忠盛目のすがまれたりければ、かやうにはやされけり。
いかにすべきやうもなくして、御遊ごいうもいまだ終らざるに、ひそかに罷出まかりいでらるるとて、横だへさされたりける刀をば、紫宸殿ししんでん御後ごごにして、かたへの殿上人てんじやうびとの見られける所にて、主殿司とのもづかさを召して、預け置きてぞ出でられける。家貞いえさだ待ちうけたてまッて、「さて、いかが候ひつる」と申しければ、かくともいはまはしう思はけれども、いひつるものならば、殿上てんじやうまでも頓而やがてきりのぼらんずる者にてあるあひだ、「べちの事なし」とぞ答へられける。
(口語訳)
忠盛が御前ごぜんに召されて舞を舞われたところ、人々は歌の拍子をかえて、「伊勢いせ平氏へいじはすがめだわい」とうたいはやされた。平氏の人々は、口に出して申すのもおそれ多いが、桓武かんむ天皇の御子孫とは申しながら、中頃は都に住むことからも遠ざかり、昇殿もせず地下じげ階級にばかりなっていて、伊勢いせ国に長らく住んでいたので、その伊勢国の器物にかこつけて、「伊勢平氏」と申したのである。そのうえ、忠盛は目がすがんでおられたので、このようにはやされたのであった。忠盛はどうしようもないので、管弦の御遊びもまだ終わらないうちに、こっそりと御前を退出なさろうとして、横にさしておられた腰の刀を、紫宸殿ししんでん北廂きたひさし賢聖けんじょうの障子の背後において、側の殿上人の見ておられた所で、主殿司とのもづかさを呼んで預けておいて退出された。
家貞が待ち受け申して、「さていかがでございましたでしょう」と申したので、こうこうだとも宮中で受けた恥を言いたいと思われたけれども、もしそう言ったものならば、すぐさま殿上までもり上がろうとする者なので、「特別の事はなかった」とお答えになった。
五節ごせつ節会せちえには、「白薄様しらうすよう 、こぜむじの紙、 巻上まきあげの筆、鞆絵ともゑかいたる筆の軸」なんど、さまざま面白おもしろき事をのみこそ歌ひ舞はるるに、中比太宰だざいの権帥権帥季ごんのそつすゑ ごんのそつ季仲卿すゑなかのきやうといふ人ありけり。あまりに色の黒かりければ、みる人黒帥こくそつとぞ申しける。其人いまだ蔵人頭くらんどのとうなりし時、五節ごせつに舞はれければ、それも拍子をかへて、「まな黒々くろぐぐろ、黒きとうかな、いかなる人のうるしぬりけむ」とぞはやされける。
花山院くわさんのゐんぜん太政大臣だいじやうだいじん忠雅公ただまさこう、いまだ十歳と申しし時、父中納言ちゆうなごん忠宗卿ただむねきやうにおくれたてまッて、みなしにておはしけるを、中御門なかのみかど藤中納言とうちゆうなごん家成卿かせいのきやう、いまだ播磨守はりまのかみたりし時、婿むこに取って声花はなやかにもてなされければ、それも五節ごせつに、「播磨よねは、とくさかむこの葉か、人のきらをみがくは」とぞはやされける。「上古しやうこにはかやうにありしかども事いでこず。末代いかがあらんずらむ、おぼつかなし」とぞ人申しける。
(口語訳)
五節ごせつ節会せちえには、「白薄様しろうすよう濃染紙こせんじの紙。巻上まきあげの筆、ともえを描いた筆のじく」などというように、さまざまなおもしろい事ばかりをうたい舞われるものなのに、中頃に太宰権帥季仲すえなか卿という人があった。あまり色が黒かったので、見る人は黒帥こくそつと申した。その人がまだ蔵人頭くろうどのとうであった時、五節に御前に召されて舞われたところ、その拍子をかえて、「ああ黒い黒い、全く黒い頭だな、どんな人がうるしを塗ったのだろう」とはやされた。また花山院かざんにんの前太政大臣忠雅ただまさ公がまだ十歳と申す時、父中納言忠宗ただむね卿に先立たれなさって、みなし子でおられたのを、故中衛門藤中納言家成卿が、まだ播磨守はりまのかみであったが、娘婿にして華やかなにもてなされたので、それも五節の時に、「播磨米はりまよねは、木賊とくさむくの葉か、人を一所懸命飾らせているわい」とはやされた。「上古にはこんな事があったが、事件が起こらなかった。だが今は末代だ、どうであろうか、気がかりだ」と人々は申していた。
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