~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅳ』 ~ ~
 
==平 家 物 語==
校 注・訳者:市古 貞次
発行所:小 学 館
 
2018/09/26 殿てんじやうのやみうち (一)
しかるを忠盛備前守びぜんのかみたりし時、鳥羽院とばのゐん御願ごぐわん得長寿院とくぢやうじゆゐん造進ざうしんして、三十三げん御堂みだうをたて、一千一体の御仏みほとけをすゑ奉る。
供養くやう天承てんしょう元年三月十三日なり。勧賞けんじやうには闕国けつこくを給ふべき由仰せ下されける。境節をりふし但馬国たじまのくにのあきたりけるを給ひにけり。上皇しやうくわう御感ぎょかんのあまりに、内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。
くも上人うえびと是をそねみ、同じきとしの十一月廿三日、五節豊明ごせつとよのあかり節会せちえよる忠盛ただもり闇打やみうちにせむとぞ擬せられける。忠盛是を伝へ聞いて、「われ右筆いうひつの身にあらず。武勇ぶようの家に生まれて、今不慮の恥にあはむ事。家のため身の為、心うかるべし。せむずるところ、身を全うして君に仕ふといふ本文ほんもんあり」とて、ねて用意をいたす。参内さんだいのはじめより、大きなる鞘巻さやまきを用意して、束帯そくたいのしたにしどけなげにさし、火のほのぐらきかたにむかって、やはら此刀をぬきいだし、びんにひきあてられけるが、氷なッどのやうにぞみえける。諸人しょにん目をすましけり。
(口語訳)
ところが忠盛がまだ備前守びぜんのかみであった時、鳥羽とば院の御願寺ごがんじである得長寿院を造営して差し上げて、三十三げん御堂みどうを建て、一千一体の諸仏をすえ申した。寺の新築落成の仏事供養は天承元年三月十三日である。その褒賞ほうしょうとしては国主の欠けている国を下さるべき由を仰せ下された。ちょうどその時に但馬たじま(兵庫県)の国主があいていたので、それをお与えになった。
鳥羽とば上皇はなお御感心のあまりに、内裏の清涼殿せいりょうでんの昇殿を許された。こうして忠盛は三十六歳で、初めて昇殿した。
公卿・殿上人たちはこれをねたんで、同年十一月二十三日、五節豊ごせつとよあかり節会せちえの夜、忠盛を闇討にしようと、計画をたてられた。忠盛はこの事を聞き伝えて、
「自分は文官の身ではない。武勇の家に生まれて、今思いがけない恥を受ける事は、わが家のため、わが身のために、つらく残念な事であろう。結局、身を全うして君に仕えるという本文がある」といって、あらかじめ用意した。参内する前から、大きな鞘巻さやまきを用意して、束帯の下にだらしなげにさし、火の薄暗い方に向かって、おもむろにこの刀を抜いて、びんの毛に引きあてられたが、それがとぎすました氷の刃のように見えた。人々はじっと目をすましてこれを見守った。
其上そのうへ忠盛の郎等らうどう、もとは一門たりし木工助もくのすけたいらの貞光さだみつまごしんの三郎さぶらう大夫だいふ家房いえふさが子、左兵衛さひやうゑのじょう家貞いへさだといふ者ありけり。薄青うすあを狩衣かりぎぬの下に、萌黄威もえぎおどしの腹巻を着、弦袋つるぶくろつけたる太刀たちわきばさむで、殿上てんじやうの小庭にかしこまつてぞ候ひける。貫首以下くわんじゆいげあやしみをなし、「うつほばしらよりうち、鈴の綱のへんに、布衣ほういの者の候は何者ぞ、狼藉らうぜきなり、罷出まかりいでよ」と、六位ろくゐをもッていはせければ、家貞申しけるは、「相伝そうでんしゆ備前守びぜんのかうの殿との、今夜闇打やみうちにせられ給ふべき由承り候あひだ、そのならむやうを見むとてかくて候。えこそ罷出まかりいづまじけれ」とて、かしこまつて候ひければ、是等をよしなしとや思はれけん、其夜そのよやみうちなかりけり。
そのうえに忠盛の郎等ろうどうで、もとは一門であった木工助平貞光さだみつの孫で、進三郎大夫家房いえふさの子に、左兵衛尉家貞いえさだという者があった。薄青の狩衣かりぎぬの下に、萌黄縅もえぎおどしの腹巻を着て、弦袋つるぶくろをつけた太刀たちを脇にはさんで、殿上でんじょうの小庭にかしこまって控えていた。
蔵人頭くろうどのとう以下の人々は怪しく思って、「空柱うつおばしらより内側、鈴の綱の辺に、無紋の狩衣の者がいるのは何者だ、無礼である、退出せよ」と六位の蔵人くろうどに言わせたところ、家貞が申すには、「先祖代々の主君である備前守殿びぜんのこうのとのが、今夜闇討ちにおあいになるという事を承りましたので、その成行きを見ようと思って、こうして控えているのです。どうしても退出できまさぬ」と言って、かしこまって控えていたので、これらの事を都合が悪いと思われたのだろうか、その夜の闇討はなかった。
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