~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
新 妻 た ち
 
2018/07/19
巴 (二)
やがて義仲の成長した時、戦乱の世はしだいに近づいて来た。都で挙兵して敗れた以仁王もちひとおうの発した「平家追討」の令旨りょうじがもたらされた時、義仲は兼遠の息子たちと共に起ち上がる。
はじめ彼らは義仲の父の故地、武蔵や上野こうずけねらったが、すでにその地は頼朝の勢力範囲になっていたので、あきらめて反転越後に向かう。その頃越後には大豪族のじょう氏がおり、平家の命令を受けて、義仲追討の軍を進発させようとしていた。この時木曽方は数倍する城氏の軍勢と戦って、奇跡的な勝利を得る。以来、彼らは、快速の進撃を続けて北陸地を席巻し、一気に都まで押し進んで行く。この時行われた最も有名な戦いは倶利伽羅くりからとうげでの決戦である。この時も木曽方は、数倍の敵に決定的な打撃を与えている。
この戦いの意義は、少数が多数を破ったというような、戦術的な問題ではない。既成の権威に対して、一地方の勢力が戦いをいどみ、その権威を突きくずしたということである。
これはそれまでの日本史の中で一度も行われなかったことだ。それを木曽義仲はやってのけたのだ。古代的な権威が音を立てて崩れたのは、この瞬間だといってよい。
が、実を言えば、義仲に出来ることは、せいぜいそこまでだった。彼は既成の権威に一撃を加えることは出来ても、新しい体制を生み出すだけの構想も政治力も持ち合わせなかった。だから意気揚々と都入りしたものの、都のしきたりも、政治のしくみもわからず、意地悪な公卿連に手玉に取られ、何らなすところなく日を過ごし、遂に鎌倉勢の攻撃の前に敗退して、あっけない最期を遂げる。
『平家』はこの都における義仲を、極端に戯画化して描く。車の乗り方ひとつ知らず、牛が走り出したために、車の中でひっくり返ったり、降りる時は車の前部に降りるのに、後から降りてしまったとか、公家に田舎いなかまるだしの食事のすすめ方をしたとか・・・・。彼は最後に公卿たちの権謀術数に腹を立て、後白河法皇や天皇を押し込めてしまう。そしてそのあとで、彼は言う。
抑々そもそも義仲、一天の君にむかひたてまつりいくさには勝ぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならうどおもへども、わらはにならむもしかるべからず。法皇にならうど思へ共、法師にならむもをかしかるべし、いよいよさらば関白にならう。
(そもそも義仲は、いま天皇と戦って勝った。さあこの上は天皇になろうか、法皇になろうか。天皇になろうかと思うが、今さら童形になるわけにもいかないし、法皇になろうかと思うが、坊主になるのもおかしい。よしよし、じゃあ関白になろう)
『平家』は院は出家していたので僧形となって法皇と称し、天皇は当時元服前だったので、童形でいたのを、天皇とは童形のもの、院とは僧形のものと決めてかかっている彼の無知ぶりをあざ笑っている。もちろん義仲だって、それほど物を知らなかったわけではないだろうが、政治に対しては全く何も知らず、平家打倒後のヴィジョンを何一つ持ちあわせていなかったことを風刺した話だと思って読めば、それなりに、まさに義仲の本質をついているといえる。この時義仲はさらに関白は藤原氏でなければならないと言われて、それもあきらめた、と『平家』は書いている。
ではこの間」、巴はどうしていたか。これについて『平家』は全く語っていない。が、このころ、公家側では義仲を懐柔するべく、全関白藤原基房の娘を与えている。山男は、多分都の姫君の美しさに有頂天になったろうから、巴としては気が気でなかったかも知れない。
その間にも刻々鎌倉からの追討の軍は迫って来る。しかも都は食糧不足で、木曽勢に途中からついて来た連中は、その生活に失望して、どんどん脱落して行った。そのせいか、さきにあれだけ平家に打撃を与えた義仲なのに、西国に逃げ延びた彼らに対して、どうしても決定的勝利をおさめることが出来なくなっていた。
そのそのうち遂に鎌倉勢が姿を現した。その勢六万余騎(もちろんこれには誇張もあろうが)と称する彼らに立ち向かう義仲は、たった千六百騎程度だったと『平家』は伝えている。これでは勝敗は戦う前からもう決まってしまったようなものだ。しかも最後には義仲は主従たった七騎になってしまっていた。そしてこの時から巴のめざましい働きが始まる。先にあげた『平家』の原文は、まさにその部分であって、巴はその勇猛さの故に、乱戦の中を生き抜き、七騎の中の一人として、義仲に寄り添うようにして馬を走らせていた。
この時、巴の兄の今井兼平は別動隊として、八百騎を連れて勢田の源氏勢を迎え討つべく出撃していた。義仲は最後の日に、もっとも信頼していた乳兄弟の兼平を手放してしまったことを後悔し、都から勢田へと戦いながら彼を探しに行く。一方兼平も義仲の身の上を案じながら引き返して来て、大津の打出の浜あたりでめぐりあう。ここで残党を呼び集めると約三百騎ほどになった。
「おお、これだけあれば、最後に一勝負出来るぞ」
義仲は勇み立ち、鎌倉勢の一条次郎忠頼、土肥次郎実平などの軍勢と渡り合い、中央突破をこころみるが、敵陣を駆け抜けるうちに、残りは五十騎となり、十数騎となり、遂には五騎になってしまった。
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