~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
新 妻 た ち
 
2018/07/08
小 宰 相 (一)
ほろびゆくものの光芒こうぼうを描いた『平家物語』の中で、今まで比較的注目されなかったのは平家一門の妻たちの生涯である。しかし、この滅びの歴史の中で、もっとも悲惨なのは、彼女たちの運命ではないか、と私は思う。
彼女たちは、自分の意志としてはほとんど無関係のままに、悲惨さの中に投げ込まれた。平家の男たちの生涯の悲劇は、彼らが選び取った悲劇でsる。都落ちも、屋島、だんの浦の合戦も、その選択が誤っていたかどうかを別にして、とにかく彼らは、自分の選んだ道を歩み、そして滅びた。
が、妻たちは違う。彼女たちは夫の選んだ道を押し付けられ、その中で傷つき、苦しんで死ぬか、あるいは死よりおそろしい生を生きなければならなかった。しかもそれぞれの女たちは、世の中に対しては全く無知で無能力な女だった。平家のなにがしの卿の北の方としておさまっていたからこそ、どうにか世の荒波にもあたらずにすんで来たのだが、急に、素肌のまま放り出されたよなものであった。
いつの世にも戦乱は、最も力の弱い者を、最も深く傷つける。これはつい先ごろの戦争の時も同じことである。夫が戦死しり、自分も空襲で焼かれたり、外地からの引き揚げで死以上の苦しみを味わったり・・・・それらの戦争体験に重ね合わせて見ると、平家の人妻たちの苦しみは、よりはっきりと理解できるかも知れない。ここではその中できわだった生き方をした数人を取り上げてみたい。

その一人。小宰相こざいしょうは、平通盛みちもりの北の方である。通盛は清盛の弟で門脇中納言といわれた教盛のりもりの子。清盛の死後、平家一門の総帥となったのは宗盛(清盛の子)だが、年齢や経験からいって、補佐役の筆頭は教盛だった。
木曽義仲が兵を挙げ、いよいよ都に迫ると聞いて、平家一門は安徳天皇を奉じて西海へおちのびるが、このとき、小宰相も通盛に従って都を捨てた。やがて平家は西国で勢力を盛り返して一の谷まで攻めのぼって来る。その間に木曽義仲は没落し、かわって平家の前に立ちふさがったのは鎌倉勢 ── 源頼朝の命令を受けて上洛じょうらくして来た源氏の軍勢だった。
ここで源氏と平家の間に有名な一の谷の合戦が行われ、平家は敗れて海上にのがれる。この合戦の時、通盛は山手の大将だったが、傷をうけ、敵に取り囲まれて戦死する。
「落足」の章にはこんなふうに書いている。
越前三位通盛卿は山手の大将にておはしけるが、其日そのひ装束しやうぞくには、あか地の錦の直垂ひたたれに、唐綾からあやおどしのよろひきて、黄河原毛なるむま白覆輪しろぷくりんくらをいてのり給へり。うちかぶとをゐさせて、かたきにおしへだてられ、おとゝ(弟)能登のと殿にははなたれ給ひぬ。しづかならん所にて自害せんとて、東にむかっておち給ふ程に、近江あふみ国住人佐々木木村三郎成綱、武蔵むさし国住人玉井四郎資景すけかげ、かれこれ七騎が中にとりこめられて、遂にうたれ給ひぬ。そのときまではさぶらひ一人いちにんつきたてまつりたりけれども、それも最後の時はおちあはず。
赤地錦の直垂、唐綾おどしの鎧(唐からの渡来した綾を細くって、たたみかさねておどした鎧)、黄河原毛の馬(黄味のかった褐色と白のまじった毛の馬)白覆輪の鞍(銀でふちどりをした鞍)──『平家物語』の中にはこうした美しい武士の装束がよく出て来るのが特徴だが、通盛も大将にふさわしい華やかないでたちをしていた。
「うち甲をゐさす」というのは甲の内側を射られたこと、すなわち頭に傷を受けたのである。味方から押しへだてられた通盛は、傷を受けて弱り、自害を覚悟して死場所をさがすうち、佐々木、玉井といった武士に囲まれて死んでしまう。この時までついていた侍も、彼の最期の場には居あわせなかった。
ところで、この侍が死ななかったおかげで、北の方が夫の死を知るところから『小宰相」の章がはじまる。
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