~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/07
二 代 后 (五)
多子の二度の入内は、たしかに当時としてはセンセーショナルな事件であった。あえてここれをやってのけた二条帝は、まことに強引な感じがするし、これで父の後白河に文句をつけられるのは当たり前だ、と思われるが、実を言うと、天皇と院の対立は、こうした感情的な問題ではなかった。そして二条帝の言葉として有名な、
「天子に父母なし・・・・」
も、実は多子のことに関して言われたものではないのである。
もともと二条天皇はなかなか英明で早くから帝位に立つことを期待されていた。父帝後白河が即位したのも、当時の実力者だった鳥羽上皇が、むしろ孫の二条を位につけたかったためで、その父が生きているうちにそこを素通りしてしまうわけにも行かないので、二条を即位させる含みで、先ず後白河を即位させたのだという。
つまり後白河は全く期待されない天皇だったのだ。しかし結果においては鳥羽の死後、院政をはじめ、長く権力を握ったのは、この後白河だったのだから皮肉である。したがってその政治力も大したことはなく、むしろ失政につぐ失政だったといってよい。ふつうこの後白河に対しては、平家や木曽義仲、源義経を操った怪物のように思われているが、これはとんでもない買い被りである。
さて、この後白河は二年ほど在位して位を二条に譲ると院政を始めた。が、その側近である藤原信西と藤原信頼が対立して、源氏の武力を巻き込んで、戦いが起こった。その結果、一度は信西が殺されて信頼が勝利をつかんだが、その時都を留守にして熊野詣でに出かけていた平清盛が帰京するに及んで、信頼および源氏一族が倒された。これが平治の乱だ。
この時、清盛と綿密に連携していたのは二条天皇およびその側近である。天皇は後白河とともに信頼の手許にあったが、ひそかに脱出し、清盛のやかたに移った。
もともと、この乱は院の近臣の権力争いに端を発した争いだった。後白河上皇は、ここでも政治的な統率力のなかったことを暴露したわけだが、これ以来、二条天皇およびその側近は、政治のイニシャチブを自分の方へ取り戻そうと努力したらしい。この時、院の側近が、
「世ヲバ院ニシラセマヰラセジ、内ノ御沙汰ニテアルベシ」
と言ったと『愚管抄』は伝えている。するよ後白河方も早速巻返しを計って、二条天皇の側近を追放した。つまりこの時の院と天皇の対立は、院政で行くか、天皇親政に戻るか、という政治の本質にかかわった相剋そうこくだったのだ。そしてこの院と天皇との反目はさらに深刻になり、お互いに、ちょっとして理由をつけて相手側の側近者をやめさせたり、流させたりした。その意味では、まさにこの「二代后」の中でいわれている通りのことが行われていた。
そして実は「天子に父母なし・・・・」も、この果てしなき権力争いの間での発言で、真相は天皇が院にさかららった人事異動をやったとき、
「天子には父母がない。たとえ上皇の仰せであっても、政務に私情が加わるべきではない」
と言ったのだという。
こうした事件が度重なったため、当時の人は、
「天皇ははなはだ英明だが、孝行という点はどうも欠けている」
と評したという。
が、この時の対立が院政か天皇親政かという根本的な問題を含んでいることを考えれば、どちらが正しいかは、すぐには結論の出ない問題である。『平家物語』の作者は二条帝位のこのショッキングな発言だけを覚えていて、多子入内じゅだいのことにこれを使ったのだろう
これを文学的なフィクションと見るべきか、作者の政治感覚の足りなさ、と見るべきかは、評価のわかれる所だ。すでに、他の人々によって、『平家』の作者の政治感覚の欠如は、よく言われていることだが、たしかにここは、そうした傾向の一つの現われと見てもいいかも知れない。私はこうした点から、『平家』の作者は、それほど政治の中枢に坐っていた人ではない、と思っている。要職について政治の機微を知っていた人ではなく、もっと野次馬的な人間だったと思うのだ。それにもう一つ、この書き方を見ると、この作者の立場は、あまり二条天皇に好意的ではあるとは思えない。公平に見れば後白河にむしろ欠点が多いのだが、そのことにはふれず、専ら二条の横紙破りの有様を強調している感じである。『平家』の政治的感覚のなさの一つとして、後白河を完全に描き切っていないということがよく言われるが、これは政治感覚の問題だけでなく、後白河に対する筆者の位置の取り方も反映しているのではないか、という気がする。
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