~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/08
二 代 后 (六)
さて、『平家物語』の中に登場する王妃は、ヒロインともいうべき建礼門院をのぞけば、祇園女御と多子のほかはほとんどいないが、ここでちょっと付け加えておきたい女性がいる。
それは巻第一「東宮立」も登場する建春門院である。気鋭の二条帝がいくばくもなく病気になり、その皇子(六条帝)に位を譲って崩じた後、その東宮には後白河院の皇子が立つ。これがのちの高倉天皇で、建春門院はその母である。
前掲の系図でみる通り、天皇の叔父が皇太子となったわけだ。これは異例のことで、『平家』もこんなふうに書いている。
春宮とうぐうは御伯父おじ六歳、主上は御おい三歳、詔目ぜうもくあひかなはず
詔目は正しくは詔穆しょうぼく。中国では中央に太祖(王朝の創始者)びょうがあり、左にその子の廟がある。これを昭と言う。右側にあるのが、太祖の孫の廟でこれを穆という。こういうふうに順序正しく並ぶべきなのに、これでは順序が逆だというのである、
しかもその数年後六条幼帝は譲位する。その年わずか五歳、東宮は八歳で即位した。
こうして後白河院は、名実ともに帝の父として、院政を執行する権利を掌握する。と同時に、高倉帝の即位は、後白河と平家を急速に近づけた。というのはこの建春門院は、滋子しげこといい、平清盛の妻、時子の異母妹だからだ。しかも彼らの兄弟に、清盛の片腕となって活躍する時忠(時子と母は同じ)がいる。彼らの父の時信は平家といっても別系の中級官僚貴族の出身である。系図には書かなかったが、このほか何人か女の子があり、それぞれ、平重盛や宗盛に嫁いでいる。
後に建春門院の生んだ高倉帝の所に、清盛の娘の徳子が入内し、平家全盛の時代を作り上げるのだが、この下地は、滋子が後白河の愛姫となって皇子を生んだところにあるといっていい。一般に平家は成り上がり者で、はじめて天皇家に娘を入れた、というふうに考えられているが、こんなふうにその下地は前から用意されていた。もちろん院の側室になるのと天皇の正姫として入内するのでは格式も違うが、建春門院の生んだ皇子が即位し、建春門院自身が国母こくもとして待遇を受けていたことが徳子入内をスムーズにしたであろうことは考えられる。この意味で、建春門院もまた平家一門興隆の鍵をにぎる女性の一人であった。