~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/06月
二 代 后 (四)
ついに二条帝の後宮に入る日が来た。おつきの公家たちが従い、出車いだしぐるまの様子なども特に心をつかって準備が整えられた。出車というのは、女性が車に乗っている時に、わざとすだれの外へ衣の袖口など押し出すことである。公家や女房がたくさん並んで入内に従ったことをこう言ったのだ。
しかし、当の多子の心は晴れず、わざと夜も更けてから入内した。その後の住いは麗景殿れいけいでんであったが、ひたすら帝にも政治に奨励されるようにおすすめし、愛欲に溺れるようなことはなかった。
原文ではこれを「ひたすらあさまつりごとをすすめまうさせ給ふ御ありさまなり」と言っている。「あさまつりごとせず」というのは「長恨歌ちようごんか」の中の有名な一節である。楊貴妃ようきひの愛におぼれた玄宗皇帝が政治をかえりみなくなったことを、
「これより君主早朝せず」
といっているので、これは『源氏物語』の「桐壺きりつぼ」の巻にも使われているから、それからの連想で『平家』もいういう言い廻しをしたのであろう。
さて、宮中には故近衛帝がまだ幼かったころ、清涼殿の障子をちょっとよごされたあとが残っていた。この頃の障子は、現在の衝立とかふすまのようなもので、さんに紙を貼ったあかり障子ではない。ここにはいろいろの絵が描いてあるが、近衛帝が幼児のころ、ちょっとこれに手をふれて汚されたというのである
それを見て、多子は昔を思い出して一首の歌を詠んだ。
おもひきや うき身ながらに めぐりきて おなじ雲井の 月をみむとは
(憂き身の上ながら、またふたたび宮中に戻って来て昔ながらの月をながめようとは・・・・)
障子に画かれた絵が遠山にかかる月の絵だったから、これと雲井の月を眺める(宮中生活をする)こととをかけたのだ。

以上が「二代后」のあらましである。ここでは二代の帝のおきさきとなった多子の悩みしか取り上げられていないが、この多子は、近衛帝に入内した時、すでに運命の歴史の渦に巻き込まれた女性だった。
彼女が藤原公能の娘であることはすでに述べた。が、彼女はすでに幼い時から伯母の幸子に養われていた。というより、この伯母の夫の藤原頼長の養女になっていた。頼長は摂関家の嫡流を継いだ藤原忠実の息子で、同じ藤原家の中でも、父公能の徳大寺家に比べてずっと家柄がよい。
頼長が彼女を養女にしたのは、多分近衛天皇に入内させることを、始めから計算に入れてのことだったと思われるが、三歳の時の魚味始まなはじめ(食い初め)はすでに頼長の邸で行われた。その年には着袴はかまぎ(今の三つのお祝いにあたる)の祝いを行い、この頃早くも、
「天皇御成人の折には、この娘を ──」
と内諾を得ていたらしい。
ではなぜ、頼長はまだ年端もゆかない多子の入内に一所懸命になったか? いうまでもなく近衛天皇との間に皇子を生ませ、これを皇位につけて、摂政、関白として権力を握るためだった。
ところが、彼には年の違う兄、忠通がいた。ふつうなら忠通の系統が嫡流を継ぐべきだったのだが、父の忠実が頼長を偏愛して、強引に彼を跡継ぎにしようとしていたのである。
もちろん兄の忠通として見れば面白くない。すでにこの時摂政になっていた忠通と、内大臣になって後から追い上げて来ていた頼長とは、入内問題を機に、ますます対立を深めてゆく。
多子が先に述べたように、十一歳で入内すると、後を追うようにして兄忠通の子の呈子ていしが入内する。彼女はすでに二十歳、天皇よりはるかに年上だった。
こうした入内争いがさらにエスカレートして行って遂に爆発したのが保元の乱である。んもちろん原因はこれだけではなく、天皇家の相続争いやら、さまざまの問題が絡んでいるが、この藤原家の兄弟の勢力争いも大きな原因の一つとなっている。
だから、多子はこの大争乱の発火点となった女性だといってもいい。彼女が意志したわけではないのだが、その存在は歴史に大きな影響を与えているのである。
『平家物語』にはこの話は出て来ない。それというのも、これはむしろ、保元・平治の事件に属するから省略したのであろう。そして、これらの政争には関係なく、近衛帝と多子の間には、人間としての愛情が芽生えていたことだけをそこに描いてみせたのかも知れない。
いかに周囲の雑音が高くとも、愛し合っている者はそんなこととは無関係に生きることが出来る。── あるいはそう言いたかったのかも知れないが、正直いって、この章の多子の描き方はひどくマンネリで面白味はない。
周知の如く、保元の乱では頼長は敗れ、傷を受けて死ぬが、このときすで近衛天皇は亡く、多子は宮中を退いている。
ではその後の多子はどうなったか。これほど二条帝に懇望されて入内したのであるが、五年後にはまたもや帝に先立たれ、今度こそ落飾して北山の麓に移り住み、建仁元年(1201)十二月二十四日に亡くなった。年六十二歳、このころの女性としては長寿の方である。
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