~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/06月
二 代 后 (三)
さて、その頃故近衛天皇のお后だった多子たこという人がいた。すでに天皇に先立たれ、太皇太后と呼ばれて、近衛河原のあたりにひっそり住んでいた。といっても年はまだ二十二、三で、女盛りがやや過ぎたという程度であった。近衛天皇は三歳で即位し、十七歳で亡くなってしまった不運の天皇である。多子は保延六年(1140)の生まれだから、天皇より一つ年下で、久安六年(1150)の数え十一歳で天皇のお后となり、五年後には、すでに未亡人になってしまった。従って正確には、この時点で二十一歳だった。そしてこの若さと美貌がまもなく彼女を数奇な運命に引き込むのである
しかれども、天下第一の美人のきこえましましければ、主上色にのみそめる御心にて、ひそか高力士かうりよくしぜうじて、外宮にひき求めしむるに及んで、この大宮へ御艶書あり。大宮あへてきこしめしもいれず。さればひたすらはやほにあらはれて、后御入内じゅだいあるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。
(多子は、天下第一の美人だという評判だった。天皇(二条)は女性には目のない方で、ひそかに美人を探していたところ、この多子のことが耳にとまり、ここへ文がつかわされた。多子は全然応じなかったが、天皇の方では、早くもその意思を表明して、入内せよと、多子の実家の右大臣家に命令が下った)
「高力氏に詔じて外宮にひき求めしむる」というのは、中国の故事をひいたもの。玄宗皇帝の時代、高力氏という人物が帝の意を受けて美人探しに歩き、楊貴妃ようきひを見出した。
このことから臣下に美人を探させるという意味に使っている。
この多子は、右大臣藤原公能きみよしの娘である。この家は徳大寺とよばれるかなりの名家であるが、さらに家柄のいい藤原頼長の養女として近衛天皇の側へ入内した(このことについてはまたあとでふれたい)
が、とにかく、先帝のお后が、まら別の帝のお后となるなどというのは前例がない。
「いくら何でも」
と臣下の公卿たちも反対し、後白河上皇も、
「それはよくない」
思い返すようにいろいろ言われたが、二条帝はいっこうに聞き入れずに、こう言った。
天子に父母ぶもなし、吾十善の戒功によって、万乗の宝位をたもつ。是ほどの事、などか叡慮えいりょにまかせざるべき。
(天子には父母はない。だからちちの言うことを聞かなくてもいいのだ。自分は前世に功徳くどくを積んだおかげで、いま天子の位についたのだ。このくらいのことを何で自分の思いのままに出来ないことがあろうか)
こう言って入内の命令を下してしまったので、院もついに力及ばなかった。
「十善戒功によって万乗の宝位をたもつ」というのは、当時の天皇の位についての考え方である。この頃は前世に仏教の教えの十善を行った功徳によって、天皇の位についた、というふうに思われていた。十善というのは、十悪すなわち殺生、偸盗ちゆうとう(ぬすみ)、邪淫、妄語(うそつき)、両舌(二枚舌)、悪口、綺語きご(まやかしの話)貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)、邪見(偏見)の悪行をしないように戒めを守ること。この戒めを守り抜いたのが戒功である。が、こんなふうに二条帝に思いをかけられ、強引に入内を要請された多子はどういう心境だったか。もう一度返り咲きの季節がやって来たことをとび上がって喜んだか。
いや、そうではなかった。自分が日本はじまって以来の数奇な道を辿たどらねばならないことを悩み、かつ亡き近衛帝ことを思って涙にくれるばかりだった。
── ああ、あのとき、いっしょに死ぬか、あるいは出家していたら、こんな恥ずかしい目にあわなくてもよかったものを・・・・。
父の公能は、さまざまなだめすかしてこう言った。
「世にしたがわざるを狂人とす、ということわざもある。もうとやかく言っている余裕はない。ただ早く入内するがいい。もじかすると、これは、二条帝の皇子を生んで、その方が位につき、そなたが国母こくもといわれ、この私も外祖父と仰がれる幸運のきざしかもしれぬ。そうなれば父にとってもそなたは大変な孝行をしてくれることになるのだからな」
が、多子の口からは、とうとう返事が聞かれなかった。そのころ、彼女は手習のついでにこう書いた。
うきふしに しづみもやらで かは竹の ためしなき名を やながさむ
(あの悲しかった先帝崩御の時に出家しなかったために、今、二代の后となって、世に例のない評判をたてることになってしまった・・・・)
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