~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/05丁目
二 代 后 (二)
この「二代后」に先立つ「吾身栄花」の最後に
楊州やうしうこがねけい州のたま呉郡ごきんあや蜀江しよくこうの錦、七珍万宝ひとつとしてかけたる事なし。
とあるのは、ただの言葉のあやではなくてそれほど中国の文物がたくさん入って来て、貿易が盛んになった、ということの表れに他ならない。
が、『平家』の作者は、これをただ「平家が金持ちになった」としか見てはいず、「むしろ、平家時代になってから世の中が悪くなった」と言っている。これはやはり平家の進出によって落目になった公家層の意見だと見ていいのではないか。今でも昔上流階級だった連中が、
「戦争前はもっとよかった。戦後になって日本はすっかり悪くなった」
などとぶつぶつ言うのと同じである。
が、これは必ずしも公平な見方ではない。事実平家時代には、それ以前に起こった保元、平治のような大乱は起こっていないから、平家の天下になって特に悪くなったとはいえない。
ただ、すでに時代は変革期に入っていたから、何となく落ち着かない世の中になっていたことは事実で、その動きについてゆけない公家連中は、いやな世の中になった。これも平家が天下をとったからだ、と考えたに違いない。
とすると、ここに、『平家物語』の作者が、ほぼ、どういう人であったかを考える手がかりがありはしないか。もちろん『平家』の作者は一人ではないし、しかも長い間かかって、多くの人の手が加わって今の形になったものと思われるのだが、それにしても中心人物は何人かいたと思う。
その筆者の一人とされているのは、信濃前司しなののぜんじ行長ゆきながという人物である。これは十四世紀ごろ成立したといわれている『徒然草つれづれぐさ』に、彼が書いたという説があるからだ。その後の研究でも、彼とか彼に近い人物とかがあげられ、当時きっての文化人である大僧正だいそうじょうがこれをバック・アップしたとも言われている。この慈円という人物は政界の大立者だった関白九条くじょう兼実かねざねの弟だから、もしそうだとすれば、公家的な観点から書かれていても無理はないことになる。私自身はこの慈円のバック・アップにはいささか疑問がるのだが、とにかく公家層に近い人物が、『平家』の周辺にいたということはまず考えてもいい。
この意味では『平家物語』は皮肉にも、平家出身ならぬ人が描いた「平家」の世界である。このことをはっきり浮出させているのがこの部分だと言えるのではないだろうか。さらに付け加えておくと── 源平両氏が朝廷の番犬的存在だったというのも、現代に目から見れば少し違う。源氏はむしろ藤原氏の番犬として成長したものだし、平家は院(上皇)の番犬として成長した。院というのは平安後期に生まれた権力機構であって、本来的な律令体制の朝廷(天皇の)をはみ出したところに生まれたものである。が、『平家』の作者がここまで見抜いていないといって、文句をいうわけにはゆかない。これは現代の目から当時を振り返ってはじめて言えることで、その頃の人々は、源氏や平氏の当人たちを含めて、誰もそこまでは考えていなかった。
では次に、三と四についてはどうか。確かに当時、天皇と上皇側にはさまざまの対立があった。このことについて、以下、本文を読みながら考えてゆきたい。
Next