~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/04
二 代 后 (一)
『平家物語』には、あまり本筋と関係のない話が数多く入っているが、これを区別すると、大体二つに分かれると思う。
一つは傍系の物語である。本筋とは別の主人公が登場して、一章または二章ぐらいで(時にはもっと多い)物語が完結する「祇王」「小督」などがそれである。この章の意味についてはすでに述べた。
もう一つは、前者のような物語的なまとまりもなく、ただ歴史に経過を説明するために置かれたような章である。今これから取り上げる「二代后にだいのきさき」はこれに属するといっていい。この集団は物語的な興味もうすいし、全体の中でさほど重要な部分とも思われないので、見過ごされがちだが、案外ここには『平家』の素顔がのぞいていることもある。だから、ここでは祇王や千手前のよな女主人公の描き方を探ってゆくのとは、少し違った角度から扱ってみたい。
「二代后」は巻一の「祇王」と「額打論」の間にはさまれている。しかし、前に置かれた「祇王」とは全く関係がない。しいていうならば、もう一つ前にある「吾身栄花」に連なる性格を持つ。そこまで平家一門の発展についてふれた筆者が一転して皇室の内部にふれ、次へとつなげる意図をもって書いたとみられないこともない。

まず本文は、平治の乱以後の社会情勢について書かれている。
昔より今に至るまで、源平両氏朝家にめしつかはれて、王化にしたがはず。をのずから朝権をかろむずる者には、たがひにいましめをくはへしかば、代のみだれもなかりしに、保元に為義きられ、平治に義朝ちうせられて後は、すゑずゑの源氏ども或は流され、或はうしなはれ、今は平家一類のみ繁昌して、かしらをさしいだす者なし。いかならむ末の代までも何事かあらむとぞみえし。されども、鳥羽院御晏駕ごあんがの後は、兵革へいがくうちつづき、死罪・流刑るけい闕官けつくわん停任ちやうにんつねにおこなはれて海内かいだいもしずかならず、世間もいまだ落居せず。就中なかんづくに永暦応保のころよりして、院の近習きんじゆ者をば内より御いましめあり。内の近習をば院よりいましめらるる間、上下おそれおののいてやすい心もなし。ただ深淵にのぞむで薄氷はくひょうをふむに同じ。主上上皇、父子の御あひだには、何事の御へだてかあるべきなれども、思のほかの事どもありけり。是も世澆季げうきをよんで、人梟悪けいあくをさきとする故なり。主上、院の仰をつねにまうしかへさせおはしましけるなかにも、人耳目を驚かし、世も(ツ)て大にかたぶけまうすことありけり。
(昔から今まで、源平両家は朝廷に召し使われ、朝廷の命令に従わなかったりその存在を軽んじるような連中がひょっこり出て来た時に、代わりあって、これに制裁を加えて来た。そのために世の中はうまく治まって、乱れることもなかったが、保元の乱で源為義が斬られ、平治の乱で源義朝が誅せられるということが起こって以来、源氏は全く凋落ちょうらくして、末流の源氏まで流罪になったり、殺されたりして、今は平家全盛の世となり、ほかに頭角をあらわす者もなくなった
こんなふうに武家の平氏が繁昌すれば、その威光におそれて、末の世まで何事も起こるまいというふうに見えたのだが、鳥羽院が亡くなった後は兵乱が続き、死罪、流罪、免職、停職がしきりに行われ、国の中が平穏でなくなった
特に二条天皇が即位された永暦、応保以来は院(後白河)の近臣を天皇方が警戒し、天皇方の近臣を後白河が牽制けんせいするというようになったので、上下は恐れおののき、安らかな心もなく、ひたすら、深淵にのぞみ、薄氷を踏むような気持でいた。
二条天皇と後白河院、この親子の間には、何の隔たりもないわけだけれども、現実には思いのほかの事件なども起きていた。これも世が末になり、人の心が悪くなったからである。天皇は、後白河の言うことにいつもさからっていらっしゃったが、中でも人がびっくりし、世をあげて非難するような事件が起こった)
ここに述べられていることは、大体四つあると思う。そのつもりで、段落をつけて口語訳をしておいたが、
一、 源平両氏は朝廷の命を受けて反乱分子を制圧する武力集団だが、平治以後、源氏が衰え、平家が繁昌したこと。
二、 この武力を持つ平家が天下を取ったにもかかわらず、かえって世の中は騒がしくなったこと。
三、 二条天皇と後白河院の近臣の間に対立があったこと。
四、 天皇と院もしばしば対立し、遂に前代未聞のことがあったこと。
一見しただけでは、いわば前置きの部分で、次の事件に移る前の時代の経過の説明にすぎないようだが、実はここにも、なかなか面白い問題が含まれている。
まず、源平両氏が、朝廷の警固役で、平家が天下を握ってから、かえって世の中が悪くなった ── という見方である。その頃の、ごく平均的な見方と言ってしまえばそれまでだが、これはどちらかといえば公家くげ寄りの考え方といってよい。もし平家側の書き手なら、「平家の天下になってから世の中が悪くなった」とは決して書きはしないだろう。
いや、事実、平清盛が登場して以来の日本は、前より一段と悪くなったとはいえない。平家政権についてはさまざまな見方があり、ある人は、藤原氏時代をそのまま引き継いだ古代的性格のものと見ているし、ある人はその中に含まれた進歩性を大きく評価しているが、とにかく、後の武家政権のように中世に向かって大きく一歩を踏み出したとは言えないにしても、彼らには藤原氏とはかなり違った性格があることは認めなくてはならないだろう。たとえば日宋貿易を積極的に推進し、瀬戸内海の航路を整備して宋船を迎え入れようとしたことなどは、外国船の瀬戸内乗り入れを認めなかった王朝時代から抜け出した進歩的な政策の一つである。
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