~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/04
祇 園 女 御 (八)
次に忠盛の側から史実を洗ってみよう。平正盛とか忠盛のような人物を院の近臣という。ふつうなら中流貴族で国のかみになるくらいがやっとの家柄で、格式のやかましいその頃のこと、天皇をとりまく朝廷ではとうてい大臣や関白にはなれない。
しかし、彼らは、財力は豊かである。国の守といえば、現代の県知事のような役目だが、収入は格段にいい。彼らの主な仕事は税の取り立てで、しかも一種の請負うけおい制度だから、決められた額だけ官に収めればいいので、それ以上うまく取り立てれば、全部自分の収入になる。だから国の守を一期(四年)やれば、莫大ばくだいな財産が出来てしまう。
彼らはそれを元手に、上皇の所に出入りする。ここは天皇の周囲のように格式ばった序列がないから、財力や才覚によって、いくらでも上皇の信任を得ることが出来る。
しかも白河のように、院政を開いて、事実上の最高権力を握っている場合は大変有利である。彼らは惜しみなく財力を費やして上皇に奉仕するかわりに、それに見合う有利な地位を獲得し、投資した額を上廻る利益を得るのである。
清盛の祖父の正盛も、こうしたやり口で白河法皇に近づいて出世した一人だった。たとえば白河が愛していた娘の郁芳門院いくほうもんいんが永長元年(1096)に死んだ時、落胆のあまり落飾した白河が、彼女の家を寺にしようと思い立った折に莫大な田地を寄進したのはこの正盛だった。これで白河の信任を得た彼はその推挙によって若狭わかさ因幡いなば但馬たじま丹後たんごなどの国司を歴任して巨富を積んだ。彼らが、祇園女御の仏事に奉仕したのも、同じやり口である。正盛の子の忠盛は父の富に加えてさらに蓄財にはげみ、そのころきっての財力の持主になっていた。これをフルに活用して出世街道をひた走り、最後には正四位上刑部卿ぎょうぶきょうに進んだ。刑部卿というのは太政官の八省の一つの長官だから現在で言えば局長クラスである。平家一門では異例の出世といっていい。
彼が仁平三年(1153)五十八歳で死んだ時、ときの左大臣頼長よりながは日記に、
数国ノ吏ヲテ富ハ巨万ヲかさネ、奴僕ぬぼく国ニ満チ、武威人ニ(原文は漢文)
と書きつけた。
では彼と祇園女御との関係は全くなかったのか?『平家物語』は全くのうそか?
これについては誠に微妙な史料がある。近江の胡宮神社に残る文書がそれで、祇園女御には兵衛ひょうえのすけのつぼねとよぶ妹があり、忠盛は彼女とねんごろになった、というのである。
この兵衛佐局も白河法皇と関係があり、その種をやどしたまま平忠盛に嫁ぎ男の子を産んだが、やがて死んだので、この子は祇園女御のもとで養われた。それが清盛だというのだ。このごろでは、この説の方が有力になっているが、この文書じたいの信憑しんぴょう性について疑問を持たれる学者もあり、必ずしも定説というわけではない。
が、一応兵衛佐局と忠盛の関係を認めるとすれば、その間に出来た子供が祇園女御に養われるということは考えられないことではない。特に院の寵愛を受けている女性の養子分になると出世が早いし、こういうことは当時よく行われている。そしてこれがいつの間にか実子と考えられるようになり、『平家物語』の作られる頃には、祇園女御と忠盛が結びつき、そこへ事を運ぶ道程として、五月雨さみだれの夜の事件が設定される・・・・と考えることもまた可能である。
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