~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/04
祇 園 女 御 (九)
私はこの説に大いに魅力を感じている一人なのだが、かうて『絵巻』という小説を書いた中で忠盛を扱った時は、兵衛佐局と白河法皇との関係を忠盛は逆手に利用し、わが子を法皇の落胤らくいんということにして前面に押し出した、という構成をとってみた。一刑部卿にすぎない忠盛の子とするより、法皇の御落胤とするほうが、出世に有利だからである。しかしどちらかといえば、法皇御落胤説は信じていない書き方をしている。なぜなら、彼が本当に法皇の落胤なら、もっと早い出世を遂げていると思うからだ。
「平家物語は清盛が十二歳で兵衛佐なり、十八歳で四位になったのを異例のこととし、だからこそ太政だじょう大臣にもなり、遷都などもやってのけた、といっているのだが、この時代の十二歳の兵衛佐は、じつをいうとさほどとびぬけた出世ではなかったらしいのだ。
たとえば同時代の藤原氏の中で比較的家柄のいい徳大寺実定は十一歳で左兵衛佐、十四歳で左近ごん権少将、十五歳で従四位下であり、関白の息子藤原基実もとざねにいたっては八歳で正五位下、九歳ですでに従四位下、十歳で左中将である。
これに比べて清盛の出世は決して早くはない。もちろん父忠盛の出世の速度に比べればかなり早いが、上り坂にあった平家としては、これは当然のことであろう。また彼より遅く生まれ、次の時代の立役者となる同じ武門の出の源頼朝も、じつは十四歳で従四位下左兵衛佐をもらっている。彼の父義朝は左馬頭どまりだから、忠盛よりずっと位は低い。その義朝の子にしてこの通りなのだから、清盛だけが異例の出世とはいえないのではないか。
してみると祇園女御の存在の謎はまだ解けているとはいえないが、彼女自身、物語の中で占める位置は、これまでに考えられていたものよりも、やや後退すると思う。
この章では『平家物語』に現れた祇園女御についてよりも、その実像についての話が主題になってしまった。それというのも、物語中では祇園女御の性格はほとんど描かれていないからで、彼女に関する限りは、物語の中の展開よりも、その虚像と実像の間を見つめることの方が面白いのではないかと思ったからである。