~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
妃 た ち
 
2018/07/03
祇 園 女 御 (七)
さて、以上が『平家物語』に現れた天皇家と祇園女御と平家との結びつきである。
しかし、真相はどうなのか。
まず祇園女御の身許だが、これはどこを調べてもよくわからない。一説によると、白河の後に即位した堀川天皇の中宮篤子内親王に仕えていて、白河に眼をつけられたともいう。またこれはずっと後のことだが、『吾妻鑑あずまかがみ 』の中に、彼女について数行の記事がある。政所別当まんどころのべっとう大江広元おおえのひろもとという人が。
「彼女は筑前ちくぜん守源仲宗という男の妻だったが、院の寵愛を受けるようになった。すると院は仲宗を隠岐おき国に流してしまった」
と言っている。政所別当といえば、行政担当の長官、いわば鎌倉の国務長官である。大江広元は中年まで都で官吏として生活し、のちに頼朝に招かれて、幕府政治の中枢にあずかった人物で、いわば鎌倉切っての知識人である。
おそらく広元は都にいる間にそんな噂を聞いていたのだろうが、何しろ広元は、祇園女御の生きていた頃からほぼ百年も後の人間なので、この事実には少し誤りがある。
源仲宗が流されたのは嘉保かほう元年(1094)で、流されたのは周防すおう(山口県)だ。
これは『中右記ちゅうゆうき』という公家の日記に書かれていることなので、まず間違いはない。
『中右記』の著者の中御門なかみかどの宗忠むねただが「これは仲宗の子の、三河守みかわのかみ惟清これきよというものが、白河を呪咀じゅそしたからだ」と書いている。もっとも呪咀事件というのは、このころよくある事で、たいていデッチ上げが多く、何かの理由で人を陥れたいと思うようなとき、呪咀の罪をなすりつけたりするから、真相はわからない。
大江広元の言葉には、ほかにも記憶違いがあり、祇園女御を鳥羽上皇の愛人だといっている。こうなると大江広元のいうこともあまり信じられない。それに、嘉保元年から五年経った康和元年に、源仲宗の妻が、夫の配流の地からひそかに上京して来たといって、改めて罰せられて土佐国に流されるという事件が起きているところをみると、仲宗の妻なる人物は、どうやらそれまで夫と共に周防に行っていたらしいのだ。とすると、これも祇園女御とは結びつかない。
結局、祇園女御のことなぞ謎に包まれているとしかいいようがない。かといって全く架空の人物かというとそうでもない。なぜなら、公家の日記を見ると、彼女がちゃんと登場して来るからである。
たとえば、長治二年(1105)十月二十六日の『殿暦でんりゃく』にはこうある。
十月廿六日、天晴(中略)今日祇園ニ於テ堂供養アリ 世間伝ウ祇園女御ト云々 上達部五人、彼所ニ向ウ(以下略)
『殿暦』というのは関白藤原忠実ただざねの日記で、同じことを『中右記』は次のように書いている。
今日院ノ女御と号スルノ人、祇園南辺ニ一堂ヲ建立シ、供養ノえんブ。天下ノ美麗過差、人、耳目ヲ驚カスト云々。(中略)くだんノ堂ハ祇園巽角ニ一堂ヲ立テ、丈六阿弥陀仏あみだぶつヲ安置シ、荘厳ノ躰、金銀ヲ餝リ、珠玉ニ満ツ。華麗ノ甚、記シ尽クスコト能ハズ。
祇園女御が金にあかせてきらびやかな堂宇を造り、金銀に飾られた阿弥陀仏を安置したことは、これによってもわかる、なおこれに関連して、『中右記』には天仁元年(1108)二月十六日にも、多数の人々を集めて供養を催したという記事が出て来る、さらに、『殿暦』には、祇園女御と平家の結びつきを示す興味ある記事がある。
永久元年(1113)の十月一日の条に、
今日院ノ女御 世人祇園女御ト云フ 備前守正盛ノ六波羅はら蜜堂ニ於テ、一切経ヲ供養くようセラルト云々。上達部、殿上人多以参会ス、余ノ職事四人、堂童子ヲ勤仕ス、院ノ仰セニ依リテナリ。
祇園女御が正盛の所で供養をし、当時摂政だった忠実は、白河院の命令で、自分の家司けいし四人に、堂童子(法会の堂の上に上って奉仕する役)をつとめさせた。
同じことは源師時という人の書いた『長秋記』にもある。このとき、特に命令がなくとも、そこへ出向くようにと指示されていたらしい。行ってみると、摂政忠実はじめ、高官がずらりと並んでいた、と師時は書いている。
こうした記事を見ると、祇園女御を忠盛の妻として結びつけるのは、ちょっと無理なようだ。一方は栄光に輝く法皇の寵姫であり、一方はその前にひざまずいて、財力を尽くして奉仕するという立場にある。祇園女御と平家の結びつきはたしかに緊密だが、『平家』にいうような関係とは思えない。
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