これらの忠盛の沈着な行動は、よほど白川法皇の心に感銘を与えたらしい。それで、この恩賞として、法皇は祇園女御を忠盛に賜ったのだ。
このとき、祇園女御は身ごもっていたので、法皇はさらにこう言ったという。
「生まれる子が女の子なら、自分の子にしよう。男の子なら忠盛の子として、武士にせよ」
そして生まれたのが男の子だったので忠盛の子となった。これが清盛だ、というのが、『平家物語』の説である。
忠盛はこの子のことを白河法皇に報告しようと思ったが、なかなか機会がなかった。
と、あるとき白河法皇が熊野詣でをし、紀伊国の糸鹿いとか坂というところで休憩をした。するとその近くの藪やぶにぬかご・・・・(山芋の子)がたくさん生えていたので忠盛はこれを取って来て、 |
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と言った。山芋の子と、妹いも(妻=祇園女御のこと)をかけ、山芋の生うのと、子供の這はうのをかけて、それとなく、もう子供は這い這いするくらいに成長した、と申し上げたのだ。と、白河法皇は忠盛の意向を察しられたとみえて、下の句をつけた |
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盛り採って養分にせよというのと、忠盛がとって養育せよというのをかけた返事である。さらに法皇は一首の和歌を忠盛に賜った。 |
よなきすと ただもりたてよ 末の世に きよ・・くさかふる・・・・ こともこそあれ |
(その子が夜泣きをしても、忠盛よ、ひたすら養育するがいい。きっと後には清く栄えることもあるぞ) |
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その和歌の言葉を取って、清盛とつけた。というのである。この子は十二で兵衛佐ひょうえのすけにり十八で四位になった。兵衛佐というのは中流の武官である。これは表向きは宮廷内の警固に当たる役だが、習慣として名門の子弟が、任官の初期に任じられる場合が多い。
清盛の生い立ちの秘密を知らない人は、 |
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言ったという。花族というのは、摂関家に次ぐ家柄で、末は大臣、大将をかね太政大臣になることもできる。つまり上流豪族の血筋である。そうした名門の子弟ならともかく、忠盛の子がそうなったので不思議がったのである。鳥羽院がこれを聞き、
「清盛の血筋のよさは、人には負けないさ」
と言ったという。 |
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