さて忠盛は、殿上の間への昇殿を許された。つまり殿上人の仲間入りをしたのである。これは平家のこの血筋の人間としては、異例の出世といっていいであろう。彼らは、伊勢あたりの豪族で、そこからのし上がって来て、国司に任ぜられるようになった。こうした連中を受領層という。平安末期── 院政期はこうした受領僧が政治の中心にのし上がって来るのだが、中でも伊勢平氏、忠盛の出世は群を抜いていたのである。こうなると当然周囲の貴族たちは、
── ふん、あの成り上がり者め。
と強い反感を抱くようになる。そして十一月二十三日豊明とよのあかりの節会せちえの夜、忠盛を殿上で闇討ちにしようという密議が行われた。
豊明というのは宮中で行われる大宴会である。毎年旧暦の十一月に五節ごせちという節会(儀式、祭典)がある。この時は五節の舞姫が出て舞を踊ったりして、四日間節会が続き、四日目の夜にこの豊明の節会になる。たくさんお酒を飲み、頬をあからめるのでこういう名前がついたのだというが、ともあれ新穀に感謝する大宴会で、舞えや歌えやの騒ぎをやる。貴族たちは、その時に忠盛をいじめてやろうと思ったのだ。
この噂うわさを聞いた忠盛はこう思った。
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われ右筆ゆうひつの身にあらず、武勇ぶようの家にむまれて、今不慮の恥にあはむ事、家の為身の為心うかるべし。せむずる所、身を全まつたふして君に仕つかふといふ本文あり。 |
(私はもともと文官ではなく、武士の出だ。それなのに、今度思いがけない辱しめを受けるというのは家の為にもわが身の為にも心憂いことである。要するに『命を全うして君に仕えよ』という文句もあることだから・・・・) |
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いよいよその日が来た。
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参内さんだいのはじめより、大おほきなる鞘巻さやまきを用意して、束帯そくたいの下にしどけなげにさし、火のほのぐらき方にむか(ツ)て、やはら此この刀をぬき出し、鬢びんにひきあてられけるが氷な(ン)どの様にぞみえける。諸人目をすましけり。 |
(忠盛は参内した最初から、大きな鞘巻の太刀(つばのない短刀)を束帯の下に無ぞうさにさし、あかりのほのぐらい所に向かって、やおらこの刀を抜き出し、鬢にあてたりしたが、それは、氷などのように見えたので、人々は眼を見張った) |
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しかも忠盛の家来で、もとは平家一門だった木工助むくのすけ平たいらの貞光さだみつというものの子孫の左兵衛尉さひょうえのじょう家貞という者が、武装をして、殿上の間の前の小庭に控えていた。
左兵衛尉というのは、宮廷の警護に当たる役だが、その当時は、ちょっとした官僚の家来は主人のとりなしでこうした役をもらう。いわば社会的な肩書であって、この場合も家貞が忠盛の家来であることに変わりはない。
『平家物語』はこの時の彼のいでたちを、薄青のかり衣の下に萌黄威もえぎおどしの腹巻を着ていた、と書いている。こうした侍さむらいし達の装束がくわしく描写されているのが、『平家』の特徴なのだが、萌黄威の腹巻というのは、萌黄色(青と黄の中間色)の糸で、鎧よろいの札さねを綴つづった略式の鎧である。その頃の鎧は、皮の小さな板(札さね
さね
)を並べて、これを糸で綴っていった。その糸の色によって緋縅ひおどしの鎧、紫威むらさきおどしの鎧などと呼ぶ。正式の鎧の大鎧おおよろいは、大将格の着るものだが、腹巻は少し略式のもので、腹に巻きつけ、背中で合わせるので、この名がある。
この時家貞は腹巻をつけてはいたが、その上に狩衣かりぎぬを着ていた。狩衣は彼らにとっては正装だから、一応礼儀正しい服装で清涼殿の庭にやって来ているわけだ。が、万一のことを考えてその下に鎧をつけている。しかも萌黄威の鎧の上に狩衣だから、色のとりあわせもなかなか美しい。
見なれない武者の姿に、殿上人たちは動揺した。
「そこにいるのは何者だ、けしからん、出て行け」
こう命令すると、さわやかな答が返って来た。
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相伝の主しう、備前守殿、今夜闇打にせられ給たまふべき由よし承うけたまはり候さうらふあひだ、其そのならむ様をみむとて、かくて候。えこそ罷まかり出いづまじけれ。 |
(代々仕えている主の備前守殿(忠盛)が、今夜闇討にあわれると聞きましたので、その最期を見届けようとしてこうしております。絶対に退出はいたしませぬ) |
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礼儀正しく言うだけに、かえってすごみがある。これでは仕方がないと思ったのか、とうとうその夜は闇討は行われなかった。忠盛と家貞主従のデモンストレーションによって、無言の圧力をかけられ、遂に公家たちは闇討をあきらめてしまった。 |
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