~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
恋 人 た ち
 
2018/06/24丁目
千 手 前 (一)
『平家物語』に登場する女性のほとんどが都育ちなのに、千手前せんじゅのまえは珍しく東国の女性である。ふつうなら平家一門の興亡などには全く無関係なはずの彼女は、ふしぎなめぐりあわせから、平重衡しげひらとかかわりを持つ。
重衡は清盛の五男で、当時本三位ほんざんみの中将ちゅうじょうと呼ばれ、一門の大将格の一人だったが、一の谷の合戦の時に運悪く生捕いけどりになり、鎌倉へ送られることになった。彼はそれ以前に、奈良攻めの総大将として出陣している。この時は反平家的な動きをしていた南都なんと大衆だいしゅ ── つまり東大寺や興福寺の僧兵達を鎮圧するためだったのだが、この時兵火によって東大寺が炎上し、有名な大仏も焼け落ちた。仏教信仰の盛んな当時にあっては、許すべからざる大罪を犯したわけである。頼朝が重衡を鎌倉に呼び寄せたのは、いわば彼を戦争犯罪人として、その罪状をただすためだった。『平家物語』の中の「街道かいどうくだり」は道行みちゆき文の典型として有名である。道行文というのは、通りすぎる地名を追いながら、そのあたりの光景や旅情を織り込んだもので、例えば、
瀬田・・唐橋からはしこまもとどろにふみならし、ひばりあがれる野路・・のさと、志賀・・浦波うらなみ春かけて、かすみにくもる鏡山・・比良・・の高根を北にして、伊吹・・だけも近づきぬ。(傍点は地名)
といった具合である。これは平安朝以後急速に交通が発達し、人々の旅への関心が高まったことと、また一面、「平曲」が各地を流浪する琵琶法師によって語り伝えられたことも無縁ではないであろう。のちにこの道行を踏まえて、『太平記』の海道下りが完成する。ここには、
元暦元年のころかとよ、重衡中将が東夷とういのためにとらはれて云々。
という文句さえある。いかにこの重衡の「街道下」が人々の耳に親しまれていたかを知ることが出来よう。
こうして重衡は鎌倉に着き、やがて頼朝の前に引き出される。案のじょう、頼朝は奈良焼き打ちについて、彼の責任を追及する。
「そもそも南都を焼いたのは、太政だじょう入道にゅうどう(清盛)の命令か、それとも、そのときにあたっての、そなたの処置によるものか、いずれにしても、以ての外の大罪であるぞ」
と、重衡は、いっこうに悪びれた様子もなく、口調もはっきりと答える。
「この事は、故入道の取り計らいでもないし、私の考えたことでもいない。衆徒(僧侶)の悪行鎮圧に出向いたのだが、思いがけない事で寺が焼けてしまったので、しかたのないこと」
重衡はさらにこう語る。
「平家がひとたび栄えて、いま落目になったのも運がつきたからだ、いわんや武士たるもの、敵の手にかかって死ぬのは決して恥ではない。ただ情があるならば、早く首をはねて欲しい」
捕虜となって敵の本拠に連れて来られたといっても、卑屈な所が全くない。彼をここまで連れて来た鎌倉の有力者、梶原かじわら景時かげときも、
「あっぱれの大将軍や」
と、いって涙を流すし、頼朝もかなり心を動かされた様子だった。が、ともかく重衡は南都焼亡の責任者だから、多分奈良の寺から何か言って来るに違いない。まずそれまでは、というので、伊豆の国出身の武士、狩野介かののすけ宗茂むねもちに預けることにした。
このとき重衡が、こんなに平静に頼朝に対することが出来たのはなぜか。これについては、その直前に「戒文かいもん」という章で説明されている。
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