~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
恋 人 た ち
 
2018/06/28月
千 手 前 (四)
やがて夜も明けて来たので、千手は重衡のもとを辞して帰り、頼朝の所へ行った。その時、頼朝は持仏堂で法華経ほけきょうを読んでいたが、
「どうだ、よい仲人をしてやったろうが」
と、千手に微笑みかけたという。
さて、これが「千手前」のあらましである。気をつけてみると、千手の語った言葉は、先に上げた一節しか出て来ない。あとは口ずさんだ朗詠や今様の文句ばかりである。もちろん実際には、あれこれ話もしたのだろうが、こうした書き方は、いかにも彼女が言葉少なの、控えめな女性であることを想像させる。
また会話があまりなくて、朗詠のやりとりそのものが会話になっているところが、この章の優雅な雰囲気を一段と高めている。千手はいわゆる東国の女らしい武骨さはどこにもない。黙っていて、次々と相手の気分に応じて朗詠を歌ってゆく。都の女性でもこんなデリケートな感覚を持つ人は少ないのではないだろうか。
その意味では、「平家物語」はここでは全く東国的な女性を描いていない。坂東ばんどう武者むしゃの生態をあれほど生き生きと描いていながら、どうも東国型の女性には目をとめていないのだ。
が、そうした不満はしばらくき、ここでは二人の優雅な一夜の雰囲気を味わおうではないか。敗軍の将の、すでに死後の世界しか求めていない貴公子が、行きずりの一夜に思いがけない心の優しさにめぐり合うこの部分は、『平家物語』の中でも最も美しいものの一つであろう。
それからしばらくして重衡は帰途につく。頼朝は彼を助けてやってもいいくらいな気持ちになったらしいのだが、南都の僧侶たちが承知せず、とうとう首を斬られる。
千手はこの一夜のこと以来、重衡のことが忘れられなくなってしまったらしい。重衡の死を聞くと、やがて出家し、信濃しなのの善光寺で行いすまし、その菩提ぼだいとむらった、と『平家物語』は伝えている。
ところが、おもしろいことに、この千手前について、『吾妻鑑あずまかがみ』の伝えていることは少し違っている。この『吾妻鑑』は漢文体で書かれた鎌倉幕府側の記録であるが、ここでは始め頼朝が伊豆へ行っている時に重衡がやって来て、ここで対面たいめんしたことになっている。その時の重衡のりんとした態度は『平家物語』と同じで、聞く人これに感じない者はなかった、とある。
それからしばらくして、重衡は鎌倉に移される。狩野介が警固に当たった、というのも全く同じである。そして、同じようにある日酒宴が行われ、五常楽、皇麞の急が奏され、「数行虞氏涙・・・・」がうたわれる。が、文章の格調からすれば、はるかに『平家物語」がすぐれている。この時、『吾妻鑑』では、鎌倉方の武将工藤くどう祐経すけつねらが席に加わってつづみを打ったりしている。祐経は曽我兄弟に殺されたので悪人のように思われているが、頼朝の側近に侍したさむらいの中では最も趣味豊かな文化人である。しかも彼は以前、都で平重盛に仕えていたことがあり、この時重衡を見知っていた。彼はしきりに重衡気の毒がった。頼朝は彼らの報告に心を動かされ、重衡に着物を贈り、さらに千手について、
田舎いなかの女ではありますが、お気に召せば滞在中お側で召し使って下さい」
と言ってやっている。
が、その後の千手についての記事は、かなり『平家』とは違っている。
文治四年、というから、それから四年後彼女は突然急死しているのだ。死んだのは、四月二十五日、年二十四歳だったとあり、
「その性質が大変おだやかで、人々はその死を惜しんだ。先に斬られた重衡が鎌倉へ来たとき、思いがけない事で親しくなり、彼が帰った後も恋慕の思いがやまなかった。その思いが積もり積もったのが発病の原因だったのではないか、と人々は思った」というようなことが書いてある。
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