~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
恋 人 た ち
 
2018/06/22
葵女御 小督局 (四)
やがて月日が過ぎて八月の十日ごろになった。仲秋の名月にほど近い季節である。その夜、紫宸殿にいた帝は、いつもよりさらに物思いにふけりがちだったが、遂にたまらず、人を呼んだ。
「誰かおらぬか」
が清盛の目が光っているこの頃では、近くにはべる人もいない。わずかに遠くで、
「仲国」
と答える人がいた。正しくは弾正だんじょうの少弼しょうひつ仲国なかくにという下僚である。笛の名手で、かつて小督の琴に合わせて演奏したこともある人間だ。
仲国が姿を現すと、帝は言った。
嵯峨野さがのあたりに、小督はかくれているらしい。その家のあるじの名はわからないが、小さな家にいる様子なのだ」
仲国は困ったような顔をした。
「その家のあるじの名がわかりませんでは」
「それもそうだな」
帝は気弱げにもう涙をうかべてしまっている。それを見て仲国も帝がお気の毒になったのだろう。ふと、あることを思い浮かべた。
── そうだ、小督どのは琴の名手だった。こんな夜には、多分、帝のことを思い出して、琴をひいておられるのではないか。とすればこの仲国、笛を合せたこともあり、その琴の音なら、すぐ聞き分けられるに違いない・・・・。
仲国はそう決心すると帝に申し上げた。
「では、何とかたずねてまいりましょう」
もし小督に巡り合えた時、ただ手ぶらでは、帝のお使いと言っても信用なされないだろうから、と帝の手紙を頂き、供を連れ、愛用の笛をもって、嵯峨野をめざして出かけて行った。
この明月の夜の嵯峨野行きは、『平家物語』の中でも最も美しい場面である。
仲国れう御馬おんむまたまはって、名月にむちをあげ、そこともしらずあこがれゆく
というあたりを、できれば原文のまま味わっていただきた。龍の御馬というのは、左右の馬寮めりょう (宮廷の馬を管理する役所) にある馬のことである。
折しも名月は近く、嵯峨野はいちめんのすすきの原であったろう。銀色の薄の穂をかきわけるようにして、馬を走らせて行く恋の使、仲国 ── 紺色と銀色に描かれた、絵のように美しい場面といえよう。
もちろん嵯峨野は、今の人家の立ち並んだ嵯峨ではない。わび住居する家がまばらにある全くの郊外で、有名なのは釈迦しゃか堂といわれた清涼寺のほかは、二、三の寺ぐらいなもので、今の天竜寺やこけ寺はまだ出来ていなかった。
仲国はその釈迦堂ものぞいて見た。もしやおこもりをしてはいないか、と思ったが、それも徒労だった。
あちこちたずね歩いて、彼はとうとう嵐山あらしやまの近くに来てしまった。この近くには、法輪寺という寺がある。
── もしや、そこでも・・・・。
と、今の天竜寺の上の亀山あたりまで来たとき、ふと、仲国は立ち止った。
かすかに・・・・ごくかすかにではあるが、琴の音を聞いたように思ったのだ。
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