~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
恋 人 た ち
 
2018/06/20
葵女御 小督局 (二)
あまりにもはかない恋の物語である。高倉にしても、
── 天皇としての道をあやまらないために。
という理性的判断によって、かろうじて自分の愛情のほとばしりを抑えたのだが、これではあまりに消極的すぎはしないか。高倉天皇は『平家物語』の中では、大変思いやりの深い賢王として描かれているので、天皇として在位中は、人のそしりを受けることはしたくない、という自制もさこそとうなずけはするものの、しかし物語としては、何やら物足りない感じがすることはたしかだ。
が、じつをいうと、天皇が葵前をわざと遠ざけたのは、単に道徳的抑制ではなかったらしい。むしろそれよりも、当時の権力者の清盛に対する遠慮が大きかったのではないだろうか。
先に述べたように、天皇の中宮は、清盛の娘、徳子である。それなのに徳子をさしおいて、葵前を寵愛したということが、清盛の耳に入ったら、どうなるか。さらに葵前が男子を生み、噂の通り女御にでもなるというようなことになったら、清盛の怒りは爆発し、彼女の身にどんな事が起こるともかぎらない。
天皇が関白基房のすすめを退けたのも多分このあたりに原因があるのではないか。関白の養女分ということになれば、家柄には問題がなくなるかわり、今度は清盛と基房の間に対立が起こり、微妙な政治問題に発展しかねない。いずれにしても、可憐な葵前を酷薄な政治闘争の渦に巻き込むことは必定である。
だから、葵前が遠ざかったというのは、天皇の大きな愛情に他ならなかった。
── こんな可憐な女を、苦しい立場に追い込むことは出来ない。それより自分が我慢するのがいいのだ。耐えることこそ愛なのだ。
おそらく天皇はそう思ったのではないだろうか。
『平家物語』にはそこまでは書いていないのだが、これは筆者の筆が足りないからではなく、じつは小督局の物語を読む時にその経緯がはっきりするようになっているのである。だからここではいたずらな重複はさけて、さらりと書き流してしまったのではないかと思う。「葵女御」と「小督局」は、その意味でも、やはり、一緒に扱わなくてはならない巻なのである。
逆に言えば、「葵女御」は、「小督局」の前奏曲なのだ。そう思ってみれば、何か物足りない描き方も納得がゆく。さらにもう一つ、私自身の推察を加えるならば、この巻は、「小督局」を描くための、筆者のフィクションではないか、ということである。

葵前が実在したかどうかは、今日では全く確かめるすべはない。こうした宮廷の小ロマンスは、当時としては、よくあることだが、そのかわり、史料に残ることはほとんどない事件だからだ。
だからここで彼女の実在性を詮索することよりも、一応筆者のフィクションと見て、これが「小督局」の前に置かれた理由を考えてみた方が、物語を理解するためには大切ではないかと思う。
ここで『平家物語』が言いたかったのは、高倉帝の清潔でひかえめな人柄であろう。帝は決して当時よくあるような色好みではなかった。たとえば白川法皇は、各階層の女を手当たり次第に寵愛し、法皇のお俊胤と名乗る者がsちこちに現れたというエピソードの持ち主である。
が、高倉帝は決してそういうことをしなかった ── ということを『平家』の作者は言いたかったのだ。天皇としての自覚もあり、抑制心もあり、耐えしのぶという愛の形を知る人だった。
「葵女御」で語っていることは、じつはこの一事につきるといってもいい。巻の名前こそは「葵女御」だが、主題は高倉帝の性格であり、葵前自体は、むしろ脇役である。たしかに、今の感覚でいえば、彼女の描き方は、いさかか物足りない。帝の恋の歌を見て、それなり死んでしまうというのも、簡単に結末をつけたという感じがしないでもない。
が、これも、彼女がフィクションの人物であり、小督を描くための前提的な存在だとするならば、納得もゆく。だから私たちは、ここでは、実在もさだかではない幻のような美女を想像出来ればそれでいいのである。
弱々しげな、かぼそい体と、少女らしさの抜けきれない、可憐な面差おもざしと── この世ならぬ美しさを持ったその人は、高倉帝の思いやりがかえってあだとなって、愛の重みにさえ耐えかねて、この世を去ってしまった。なかばメルヘンにも似たその物語に耳を傾けながら、次の「小督局」の巻を開けてみようではないか。
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