~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
お わ り に
 
2018/08/15
『平家」について思うこと (一)
歴史ものを書く時、まず手はじめに行う史料の探索は、いよいよスタートラインに立ったという思いをいつもいだかせる。信頼できる資料は何か。偏見を混えずに、その前に坐って読みはじめる。かつて、
「資料の上を虫が這うようにして」
などと言ったものだが、決してうんざりするような作業ではない。むしろ楽しい。相手はさまざまなことを語りかけてくれる。読みなれた史料が、別の事を気づかせてくれることもあるし、いくつかの史料が、全く相反することを囁いてくれたりする。その中から探していた人物のさまざまの面が浮かび上がって来る。
これから先が、私の歴史小説の世界である。
不器用で、わらながら不満足な仕上がりばかりだが、今度のその癖が出すぎて『平家』の女性たちの周辺にこだわりすぎてしまった。が、こうして辿り終えて、今さらながら感じるのは『平家』のすばらしさである。日本の大きな変革期であるこの時期、歴史の波に浮き沈みする人間を見事に捉えて、今までの日本文学にない世界を創り上げた。あたかも『平家』の出現を当然のこととして受け止めている人々も多いのだが、もう一度、この鮮やかな登場に、目を見張り、心を震わせていいのではないか。
『平家』はいろいろの読み方がされている。作者は誰か。いつごろ成立し、どのように変容していったか。読みもの『平家』と語りものとのそれとの関係は?等々・・・・。それたの詳しい研究は、私の手に余る事なので専門の方々にお任せするとして、いまここに与えられている『平家』の語りかけを、どう受け止めているかをまとめておきたい。
歴史もの書きのはしくれとして、みつめたいのは、物語、つまり創作または小説として、『平家』がどんな世界を構築していったか、ということになろうか。個々の事実の詮索にはもう立ち入らない。また細部の表現の見事さについても、すぐれた先輩方がすでに指摘しておられるので、触れるには及ばないだろう。たしかに静かに読んでも、声を上げて誦みあげても、心の奥底深く響いてくる箇所が『平家』には溢れている。
ここまで書いてきた女性像については、残念なことに、いささか物足りなさもあるのだが、他の部分、例えば東国武士たちの合戦の部分、木曾義仲の登場と没落など、思わずのめり込みそうになって、ふっと読むのをやめて眼を瞑りたくなったり、あらぬ方を眺めたりしたくなるところは数知れない。が、もの書きとして、もう一つ触れずにいられないのは『平家』は何を書きたかったか、ということだ・と言えば読んで下さる方はおっしゃるかも知れない。
「わかりきったことじゃないか。ほら、巻頭に『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』って」
私もそう思うのだが、これには強力な反論がある。とりわけ作中に活写された東国武者の描き方を絶賛する高名な批評家は、だから、と言う。
「これは叙事詩であって、冒頭の今様風いまようふうの哀調が、多くの人々を誤らせた」
と。さらに、
(平家の哀調は) 叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想ととうふ様なものから来るのではない」
とされている。このすぐれた批評家 (思想家というべきか) の発言に続いて、他にも、『平家』は諸行無常など語っているのではない、生きているのが面白くてたまらない、そのことを描いているのだ、という方もある。
が、それでいいのだろうか。何十何百という琵琶法師たちが語り続けた「諸行無常」をもう一度聞き直してやってもいいのではないか。琵琶法師の前には、何十、何百という聴衆がいる。それが何百年も続いて来たという事実を嗤い捨てていいものだろうか。たとえ彼らのうなずき方が通俗きわまるものであったとしても・・・・。
無常という想いは平家に始まったことではない。有名な『源氏物語』の底に流れるのもそれである。この作品は華麗、優雅な王朝絵巻ではない。心というもののうつろいやすさ、愛も窮極の幸福を齎すものではないし、いや、むしろ愛は苦悩でさえある。作者の紫式部を含めて、当時の貴族、知識人たちの心の中には早くも無情の思いが潜みはじめていた。仏教思想に基づく、哲学的思惟に近いものだったかも知れないが、平安末の乱世を経験することによって、その想いはより多くの人々の心の中に沁み込んでいった。共感の中でやや通俗的な浅い理解になったことは否めないが、そこに『平家』が位置を占めるのである。
私も二十世紀を生きた人間として、敗戦の日々を体験している。地方の町にいて、苛酷な経験はしなかったが、周囲に戦いの悽惨さをくぐりぬけた人々がたくさんいた。これが『平家』の中の女性たちを書かねばならないという思いに、連なっていることはたしかなのだが、今振り返ってみると、敗戦の当時、「諸行無常」という感じは全くなかった。とすればここで『平家』の無常感はこの時代の特有の思いであって、そのことをもう一度確認し、後世に伝えなければならないのではないか。
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