~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
お わ り に
 
2018/08/16
『平家」について思うこと (二)
物語としての『平家』の描いた人間像に立ち戻らねばならない。
先ず取り上げるのは重盛である。『平家』は非の打ちどころのない賢人で、仏教を信じることが篤かった、と書いている。清盛が後白河法皇と対立した時も父を諫めたり、その他父が横暴な振舞いに及びそうになると、静かに出て来てこれを制止する。「風采も人に優れ、才智、才学」並ぶ者なしと『平家」は彼を褒めそやす。
彼はさらに乱世を予見し、熊野に詣でて清盛の悪心を和らげて平安な世にするか、さもなくばわが命を縮めて欲しいと祈る。清盛と共に生きればさまざまの罪を犯さねばならない。その報いで来世での苦しみを受けるのは耐えがたいから・・・・。その祈りが叶えられて、彼はやがて夜を去る。
まさに平家一門の模範生だが、現在この重盛像は批評家に極めて評判が悪い。つまらない、善人ぶってるだけだ、と。たしかに『平家』は重盛像創出に失敗している。実像にも触れていない。清盛が福原に隠遁した後彼は実力者として権力を振るい、対立する公家たちに執拗な厭がらせをして清盛を慌てさせたりしているのに・・・・。
その子維盛について、『平家』は一門と共に八島に逃れたものの都に残して来た妻に会いたくなって密かに舟で逃れて紀伊に上陸、思いがけず以前重盛に仕えていた斎藤時頼、今は出家している滝口入道に巡り会うと語っている。その滝口にすすめられて高野山に詣でて出家し、悟りを得て、那智の浦から入水する。これを補陀落ふだらく渡海とかいとする説もある。補陀落は、インドにある観音菩薩の住むと言われている聖地で、そこを目指して小舟に乗って海を渡ろうとするもので、そこに待ち受けているのは死でしかない。維盛は死を目指して、海に漕ぎ出した、というのである。
が、史実が明らかにする維盛は、全く違った道を辿っている。彼は八島から多数の船団を率いて紀伊を目指した。明らかな戦線離脱である。おそらく内部対立もあっての事だろうが、維盛は紀伊に上陸、迎えられて紀伊の奥で命を長らえたといわれている。事実、その地方には後に維盛の子孫を名乗る人々が長く住んでいたらしい。
もう一人の重衡については捕らわれ人となったことは既に書いた。法然に会ったというのがフィクションであるということに目を止めておきたい。と言ったのは、じつはここにかかわってのことなのだ。
重盛、維盛、重衡を『平家』はこのように創り上げた。それぞれ、何の関連もなく別々の想いを込めて ── と考えられるが、私なりの読み方を許していただくならばひそかな問いかけに対する『平家』なりの答えがそこにあったような気もするのだが・・・・。
「乱世にあって救いはあるのか」
っそれに答えて、実像を超えた人間像を刻み上げて、『平家』は物語として輝くのである。
重盛のような悟りへの道は命と引き換えにすれば可能かもしれない。維盛は戦塵にまみれている。それなりの償いとして、孤独かつ苛酷な死への旅もあるだろう。重衡の罪はさらに重い。戦いを重ね、東大寺大仏を焼き、そこで多くの人々の命を奪った。到底救われない罪を犯した彼は無間地獄に陥され、呻き続け、苦しみ続けねばならない。まさに乱世を一人で背負った大罪人だ。
が、それ故にこそ、彼には救いの道が開かれた。誰によって? 法然によって。
寺を建てなくてもいい。経典を読まなくてもいい、救いの道は拓かれている ── と法然は言う。
ひたすら阿弥陀の名号を唱えればいいのだ、と。
一切経を繰り返し読み込んだ法然が到達したのはそれだった。
この時代における法然の存在の重さ、深さがずしりと胸に響いてくる。『平家』は法然と重衡を対面させることによって、混迷する濁世の中の一筋の道を指示したのだ。
語りつくされていないかに見える女性の姿の中にも、その想いは淡々あわあわと漂っているのかも知れない。