~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/11
二 位 の 尼 時 子 (九)
ここまで『平家』の本文を辿ってみて、時子が他の女性に比べて、かなり詳細に描き込まれていることに気づかされるが、実を言うと、これでは彼女の実像は、全くと言っていいくらい明らかにされていない。『平家」は、時子の真実に迫っていないのだ。 改めてここでいくつかのことを掘り起こしてみよう。
第一に、彼女は二条天皇の乳母めのとだった。時子はただ清盛に寄り添っていた「妻」ではなかった。当時の乳母は、単に任された嬰児に乳を与え、お守りをする「乳母うば」ではない。政治的なポイントを握る重大な存在だったことに、まず注目しておきたい。
当時、天皇に皇子・皇女が生まれると、たちまちそれを取囲むのが乳母である。その中には。もちろん父を与える乳母の入っているが、生まれすぐの嬰児に最初に乳房を含ませるのは、この乳母ではなく、かなりの高官の妻でなければならず、これを乳付ちづけの乳母と呼ぶ、とうややこしいしきたりさえあった。
じつは、それ以外にいる乳を与えない乳母が重要な存在で、彼女たちの夫はいずれも政界の有力者、とりわけ生まれた嬰児の父である天皇に密着している人々である。乳母となった女性は、その夫 (乳母夫めのとと呼ばれた) や息子 (乳母子めのとご) たちと共に、嬰児の養育に専念する。健康を気遣うだけではない。皇子としての心構え、態度、臣下への接し方、すべてを教え込む。つまり幼稚園の保母、小学校、中学校の教師、いやそれだけでは終わらない。成人しても夫と共に一生その傍に密着して過ごす。
当時の乳母を理解するためには、まずそのころのきさき・・・の存在に注目しなければならない。すでに知られていることだが、きさきは必ず複数いて、その間には激烈な戦いがあった。彼女たちは天皇の最愛の寵姫になるべくしのぎを削る。いつの世にもある女の戦いだが、それだけではなかった。彼女たちの背後には、その父母兄弟である重臣がいる。その権勢をバックにライバルを押しのけ、みごと皇子を産み、その皇子が皇太子となれば、彼女および父母兄弟たちの勝利であるが、そこに辿り着くまでの道は険しい。
その頃は年長の皇子が必ずしも皇太子に選ばれるわけではなかったから、父母兄弟の力だけでなく、周囲の朝臣たちの支持も欠かせない。もちろん正式の決定は朝議 (閣議) によるが、その前段階として天皇の内諾が必要で、彼女たちは、そのために天皇と臥所の中で秘術を尽くす。ライバルも同じ野望を抱いて天皇に近づいているのだから、一瞬の油断も許されない。子供への愛に溺れている余裕はないのだ。母と子のスキンシップを重視する現代とは全く違う歴史状況がそこにはあった。嬰児は子育てのベテランである乳母に託するのが最高の道だった。
さらに言えば、嬰児に乳を与えている間は次子を身ごもることは出来ない。一日も早く懐妊を、次の皇子を! そのために母 (きさきたち) は早い「乳離れ」の道を選ぶ。そしていつの間にか意識じたいが変わって、自分の乳を与えないことが権威の象徴となった。ある女性が天皇の愛を受けながら、別の男性との間に秘密の子を儲けた時述懐する。「なんてかわいそうな子。乳母もつけられず私の乳で育つなんて」
我が子に乳房を含ませる喜びは全くない。
その後も母と授乳の関係はいろいろ変化するが、母の乳を与えないというしきたりが最後に残ったのは天皇家である。昭和天皇の親王、内親王は母皇后の許を離れ、呉竹寮に移され傅育官が養育した。そしいぇ時々天皇、皇后の許に伺候し「拝謁」することになっていたそうである。
当時の乳母に視点を戻すと、ともあれ彼女たちは腕によりをかけて、養い君を皇位継承者に押し込む。めでたくその座を獲得すれば、以後、乳母どのの権勢には及ぶ者がなく、まさに軍師、官房長官であり、出世を目指す朝臣たちは、まず乳母どのにすり寄らねば道は開けないくらいだった。
乳母自身も無位無官ではない。高級女性官僚といったところである。しかも一人の皇子に複数の乳母がついていて、それぞれの夫や息子の運命を賭けて鎬を削る。
時子はまさにその世界を生き抜いたのだ。当時、即位前で守仁といわれていた二条天皇には、その寵臣、藤原惟方これかたの母も乳母としてかしずいていたから、両者の相剋もすさまじいものがあったと思われるのだが、結局これに勝ち抜いたのは時子だった。
動かない証拠がある。それは当時行われていた八十島やそしままつりという神事があり、これを勤めたのが時子だったという史料が残っているからだ。これは乳母として二条の健康を祈るために、都から大阪の方に下り、住吉神社や難波の海に向かって、皇子の衣裳を振って祈る、というもので、そのために、皇子の衣裳はもちろん、乳母やそれに従う人々の衣裳も車も舟も全部新調しんなければならなかった。さしずめ今なら億単位の費用のかかる催しであろう。平氏の莫大な財力をバックに、時子は見事に大任を果たし、従三位に叙せられている。
時子の名声を昴めたばかりではない。実は彼女の仕える二条とその父後白河とは仲がすっくりゆかず、即位後はその対立が露骨になった。もともと英明といわれた二条は、後白河の院政を否定し、二条親政を目指していた。そこに両者を囲む近臣団の対立がからんで相剋の渦が巻き起こったのだが、もともと後白河に近い平清盛としては、むしろ時子が二条の乳母だったことが幸いし、うまくバランスを取って危機を凌いだようだ。水面下の情報交換もあったことだろう。当時の清盛は「アナタコナタ」したと言われている。清盛を横柄、傲慢なワンマンと思うのは間違いで、後白河、二条双方にかなりの気配りを見せているのだ。それも時子が二条の乳母としてその側近にあったからで、その力に助けられた面も多かったのではないか。
時子との連携が清盛に幸いしたのはここ時が初めてではない。いや、そもそもの結びつきが清盛に大きな運をもたらしたというべきか。時子も平家の血筋を引いているが、清盛とは全く別系である。略系図を入れておく。
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