~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/14
二 位 の 尼 時 子 (十)
── 略系図省略 ──
序列は必ずしも年齢順によらない。又時子たち時信の子供の母もそれぞれ違うのだが、ここでは省略する (なお、時忠と時子は同母兄妹である)
平時信は武士ではなく、公家平氏であり、この家柄は中級官僚として代々朝廷に仕えていた。むしろ結婚当時、清盛にとっては公家平氏との結びつきは有利なものではなかったか。しかも時子の同母兄に時忠がいる。公家系の家に育ち、朝廷での駆引、政略も十分身につけた才気縦横の策士である。時子が二条の乳母になった時、二条の側近にいた藤原惟方と、同じく乳母だった彼の母を向うに廻しての追いつ追われつの闘争のすさまじさ! 時子がその地位を保てたのは、時忠の奮闘のおかげである。
時忠も時子が清盛と結ばれたことによって活躍の世界を広げ、破格の出世を遂げて権大納言という閣僚クラスにのし上がっている。彼は、
「此一門にあらざらむ人は皆人非人人非人にんぴにんたるべし」
と言ったことで有名だ。「人非人」という字面じづらだけ見れば、「人でなし」「人間以下の存在」ということになるが、彼は「平家一門でなければ、朝廷の高官にはなれない」というくらいの意味で使っている。清盛も時忠の政略に助けられて権力を拡大し、時忠も清盛のおかげで大出世した、というところであろうか。時忠も言葉も傲慢な勝利宣言というより、「平家時代が来たぞ」というような意味で、今なら広報宣伝担当者のTVに流したCM、その成功例とでもいうべきか。時忠はなかなか達者な宣伝マンでもあったのである。

もう一つ、時子について注目したいのは、有名な平家の館の一つ「西八条」のあるじは彼女だった、ということだ。これについては、平氏研究の第一人者である歴史学者高橋昌明まさあき氏から頂いた論考『平氏の館について』にすべて拠っている (神戸大学史学年報・第十三号・1998年五月。当時の高橋氏は同大学教授であられた)
氏は、平家の館として、六波羅のそれについて詳しく述べられている。ここは清盛の祖父正盛が仏堂を造ったところであり、父忠盛もここに住んだという。その地の外回そとまわりに囲いがあって、平氏の有名な邸もあり、一門や郎從が住んでいた。こういう住み方は、平安朝の貴族にはなかったはずだ。藤原氏の誰彼の館の跡については発掘も行われているが、例えば藤原道長の邸の周囲にその家来が住み、全体に囲いが廻らされているというようなことはない。道長の場合は、はじめ妻の源倫子邸に通い、やがてそこに住む。その一方で姉の東三条院詮子の邸が道長によって整備されていくことは知られているが。
ところが平氏は、六波羅でそれ以前の貴族とは違った住まい方を始めている。その六波羅に次いで造られたのが西八条殿で、高橋氏によると、この地で時子が堂供養を行っているという。そのころ、夫の清盛は専ら福原に居り、時に上洛して西八条殿に入っている。文献にここを「二品亭」としており、その二品は他ならぬ平時子である。時子はそれまで清盛と共に六波羅に住んでいたが、のちに清盛は福原、時子は西八条に移ったのだと高橋氏は見ておられる。
西八条の平家の館は広大で、時子の産んだ宗盛ほか一門の邸宅が立ち並んでいた。
その実質上のあるじが時子なのである。が、栄華の日も束の間、清盛の死後、平家は没落の一途を辿り、やがて都落ちを余儀なくされる。当時の総帥宗盛は西八条に火をかけて焼き尽くすのだが、宗盛に伴われて去っていった時子は、どんな思いでその炎を見つめたことだろう。まさに時子は平家の時代のすべてを生き、すべてを見届けた女性なのである。