~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/10
二 位 の 尼 時 子 (八)
このつよさは日本の歴史の中では稀に見るものだ。ふつうは、女子供はたいてい助かってしまうし、またそれが当然のことだったが、彼女は敢然としてこれを拒否した。もし仮に彼女が助かったとしたら、案外平穏な晩年が彼女を待ち受けていたかも知れない。なにしろ帝位についた後鳥羽は、彼女がみずから面倒を見ることを買って出た皇子であり、その乳母の夫、能円は彼女の父ちがいの兄弟だ (この能円も平家と共に都落ちしたが、のち捕えられ、命は助かって流罪になった) 。が、彼女は敵の手に触れられるのを否定した。最後まで、天皇と共に ── つまり日本歴史の正統を保つものとして死んでいった。しかも宝剣と玉璽 ── 平家が命にかえても死守しようとしたすべてを抱いて・・・・。
この時一族はすべて海に身を投げたが、建礼門院は先に述べたように救い上げられ、また総帥宗盛も救われて生け捕りになった。彼について『平家』はっきりした覚悟がなかったから死にそこなったというふうに書いているが、これに比べて時子の覚悟のほどはまことに見事である。実は私は建礼門院徳子に対しても宗盛に対すると同じ感懐を持つ。覚悟さえしっかりしていたら、敵の手に救い上げられることもなかったろうに、彼女もやはり不覚悟の一人だったのではないか。
と同時に時子が神器を身に着け、帝を抱いたのも、一抹いちまつ、娘に任せておけない不安があったのではないか ── これはすでに『平家』を離れての小説家的な推測になるが、どうもそんな気がしてならない。本来なら徳子こそこの時の主役であり、帝を抱くとか帝の代わりに神器を捧げて入水してもいいはずなのに、彼女は何もしていない。もしその時、時子にそうした不安と配慮があったとすれば、まさに予感は的中したわけで、もし徳子が安徳帝を抱いていたり神器を持っていたら、結果は平家にとっては、まことにぶざまきわまることになっていた。
が、時子の見事な処置によって、かろうじて平家一門は面目を保つことが出来た。
私はここに時子の執念のようなものを感じないではいられない。
安徳帝と神器 ── 平家の栄光の象徴は、死んでも離すものか!
夫清盛の築き上げたものを、わが手でこの世から抹殺し、そうすることによって、平家の時代を完全に終結させた時子の内なる叫びが、彼女の言葉ひとつひとつの中に込められているように思われる。その意味では、まさに平家の時代は夫清盛によって創られ、妻の時子によって終りを告げたともいえるだろう。
この時、時子と共に平家に有終の美を飾らせたのは知盛だった。いささかだらしない総帥宗盛を何かとバック・アップし、時に応じてきわめて適切な助言をする人間として、彼は『平家』の中に登場して来る。たとえば重衡の時もそうだったが、壇の浦の合戦の当日も、
「今日こそ、最後だ、いかなる名将たりといえども、運が尽きれば負けるのが当たり前。が、ここで大切なのはいさぎのよい死に方をすることだ」
と言い、
「されども名こそおしけれ・・・・いつのために命をばおしむべき」
と家来たちを激励するかたわら、阿波民部重能という武士に裏切りの心のあるのを早くも見抜いて、宗盛に「斬れ」と目くばせをする。が、宗盛は気がつかず、むざむざ機を逸してしまう。さらに敗色が濃くなった時、帝の御座船に行って、船内の整理をしたことはすでに書いた。やがて人々がほとんど討死したころ、彼は、
「見るべき程の事は見つ」
と言って、かねての約束通り、乳母の子と二人、鎧を二重ねずつ着て、手を取り合って海へ身を投じた。これは鎧の重みによって絶対に浮き上がらないためである。
こう見て来ると、まさに後半に平家をまとめて来たのは知盛のように思われる。その沈着にして個性ある働きぶりに眼をつけ、『平家』の主人公は知盛だ、知盛こそは『平家』的な世界の象徴的存在だ、という学者もいる。
たしかにそのようなことも言えるかも知れない。宗盛と知盛、建礼門院と時子、この両者を比べてみると、これまで脚光の浴びることの少なかった知盛、時子の方が、むしろ歴史の主軸になって活躍している感じである。が、それだからといって、彼や時子を『平家』の主人公だと言うことはどうだろうか。作者たちは、大変見事に彼らを描いてはいるが、果たして意識の中で主人公に据えていたかどうかということになるときわめて疑わしい。むしろ小説家的見方をするならば、彼らはあくまでも脇役であり、それだけに客観的に描くことが出来、かえって個性表出に成功しているのではないかと思う。
小説を書く場合、力を入れて描いた主人公があまりうまく描けず、脇役の方が成功しているということはよくあることだ。『陛下』の中の重盛と知盛を比較すると、その感を深くするし、時子も知盛の系譜に連なる人物だと言える。
ここの読み方によっては『平家』というものの性格をとりちがえる恐れがある。むしろ私たちがここで考えるべき事は、彼らがなぜ『平家』の主人公たり得なかったかということであろう。『平家物語』とは何を語り、何を語らなかった文学であるか、これを解く手がかりの一つは、このへんにあるように思われるのだが。
ともあれ、今「先帝身投」を読んでいちばん感動させられるのは時子の最期である。ちなみに、彼女に抱かれた帝は遂にわからなかったし、宝剣もみつからなかった。のちに宝璽だけは海上に浮かんだのを片岡太郎経春という武士が拾い上げたと言われているが、石が海上に浮かぶというのは少しおかしい。考えられるのは、『平家』の記述が誤りで、時子も宝璽は持ってゆかず、どさくさに紛れて武士に奪われたか、あるいは、全部見つからないというのでは格好がつかないので、玉璽だけは浮かんだことにして、別のもので適当に補いをつけたのかといおうことだが、真相はどうもよくわからない。
なお、安徳天皇についても、後で助かったという話が残っているが、これもよくある伝説にすぎない。いや悲壮な時子の執念を思えば、帝はやはり助からなかったとしてやるのが、せめてもの心やりなのではないだろうか。
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