~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/09
二 位 の 尼 時 子 (七)
これ以後『平家』の中にしばらくの間時子は登場しなくなる。源、平両者の間の戦いが続き『平家』もその動きを追って、軍記物らしい性格を強めて来るので、女性には目もくれなくなるのだ。
この間に平家は中国筋で敗退し、さらに八島の本拠も義経に奇襲されて海上に逃れ、ついに元暦二年 (1185) 三月、だんの浦での決戦を迎える。ここは下関から程近く、中国と九州にはさまれ、瀬戸内の海水が外界へ、外界の海水が瀬戸内へというように、潮の流れが時刻によって激しく変わる所である。今もその条件は変わりはなく、かなり大きな船でも潮の流れにさからって行く時には遅々として進まないが、逆に流れに乗った時は、実に軽やかに進んで行く。
西国に根拠を持つ平家は、さすがに海戦に馴れていて、そこに眼をつけ、一挙に潮の乗って源氏の船に殴り込みをかけようという作戦だったらしい。ところが当時落目だった平家は今一歩という所で力及ばず、決定的な打撃を加えられずにいる間に、潮流が変わって、遂に今度は平家が押される立場に立たされてしまった。しかも味方の中から裏切りが出て、混戦に陥り、ついに全滅する。
この日、時子は安徳帝の乗った御座船にあった。多分この船は平家の船団に守られる形で最も安全な場所にいたのだろうが、混戦模様になると、ここも決して安全な場所ではなくなってきた。おそらく彼女の耳にも、矢うなり、雄叫び、はては矢に当たったさむらいの断末魔のうめき声なども聞えて来ていたかもしれない。いよいよ戦局が不利になった時、彼女の息子の知盛が小舟に乗ってやって来た。
「もういよいよ最後と思われます。見苦しいようなものは、海にお捨て下さい」
と言って自ら船内を走り廻って、あたりの整理をしはじめた。女房たちは、これを見て生きた心地もせず、息を殺してたずねる。
「中納言さま、戦の様子は?」
と、知盛は、むしろ落着いた口調で、
「そのうち、珍しい東男あずまおとこどもをご覧になるようになりましょう」
からからと笑ったので女たちは、
「まあ、こんなときに、冗談めいたことをおっしゃるなんて」
悲鳴に近い叫び声をあげた。
「その様子を見て、時子は、いよいよ決心すべき時が来たと思ったらしい。
二位殿はこの有様を御らんじて、日ごろおぼしめしまうけたる事なれば、にぶ色のふたつぎぬいちかづき、ねりばかまのそばたかくはさみ、神璽しんしをわきにはさみ、宝剣を腰にさし、主上をいだきたてま(ツ)て、「わが身はおうななりとも、かたきの手にはかかるまじ、君の御ともにまいるなり。御心ざしおもひまいらせ給はん人々は、いそぎつづき給へ」とてふなばたへあゆみいでられけり。
(時子は、この様子を見て、日ごろから覚悟していたことなので、喪服である鈍色にぶいろの二枚重ねの衣をまとい、練絹ねりぎぬ長袴ながばかまの脇をとって腰にはさみ、神璽を小脇に、宝剣を腰にさして、安徳帝を抱えて、「私は女だけれど、敵の手にふれられようとは思いませぬ。君の御供をいたします。帝に忠をつくそうという人々は急いで続きなされ」と言って船端に出た)
死を覚悟した時の、凛々りりしい時子の姿を、『平家』は簡単に、しかも深い感動をこっめて語っている。それは、追い詰められ、取り乱した形での死ではない。彼女がかねて用意していた喪服をまとっていることによっても知られる通りである。しかも神璽、宝剣 ── 絶対平家が敵に手渡すまいとした王位の象徴は、肌身離さず身につけて、帝を抱き、彼女は静かに船端に進んだのだ。
主上ことしは八歳にならせ給へども、御年の程よりはるかにめびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりもてりかかやくばかり也。御ぐしくろうゆらゆらとして、御でなかすぎさせ給へり。あきれたる御さまにて、「あまぜ、われをばいづちへぐしてゆかんとするぞ」とおほせければ、いとけなき君にむかひたてまつり、涙ををさへて申されかるは、「君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御ちからによ(ツ)て、今万乗のあるじと生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。まず東にむかはせたまひて、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後そののち西方浄土の来迎にあづからんとおぼしめし、西にむかはせ給ひて、御念仏さぶらふべし。この国は心うきさかゐにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へぐしまいらせさぶらふぞ」と、なくなく申させ給ひければ、山鳩やまばと色の御衣にびんづらゆはで給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手あはせ、まず東をふしをがみ、伊勢大神宮に御いちま申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめたてま(ツ)て、ちいろの底へぞいり給ふ。
(帝は今年八歳、年よりは大人びて、端正にあたりも照り輝くばかりの美しさであられた。御髪は黒くゆらゆらと背中にすぎる長さで、途方に暮れた様子で、「尼御前、私をどこへ連れて行こうとするのか」と言われる。
二位尼はこの幼君に向かって涙をおさえ「帝には、御存知もございませぬか。いま帝は前の世に十善の行をつまれたために、この世に天子としてお生まれになられましたが、平家の悪行につらなる縁で、遂に御運も尽きたのでございます。さあ東に向かって伊勢大神宮にお別れをなさいませ。次に阿弥陀あみださまに西方浄土へお迎えいただけるように、西へ向かって御念仏をなさいませ。この国はいやなところですので、極楽浄土といういよい所にお連れするのでございますよ」
と涙ながらに申し上げた。帝は麴塵きくじん御袍ごほうを着、髪はびんずら (少年の髪型)われ、泣きながら小さなかわいい手をあわせ、東の方、伊勢神宮をおがみ、ついで西の方へ向かって念仏を唱えられた。時子はやがてこの幼帝を抱き、「海の下にも都はございますよ。さあ、そこへ」となだめるように言って、そのまま千尋ちひろの海の底へと身を投げた )
息を呑みたくなるような場面である。最後の時が来ても取乱してはいない。もっともむごく悲しい役目を、淡々と、静かに果たしている。前世に善行を積んだ者が帝王になる、というのはこの当時の考え方だ。彼女は手短にこれを語り、しかもその運が尽き、現世の悪因縁にひかれて死なねばならぬことを静かに説く。しかも伊勢神宮への別れ、西方浄土を希求しての念仏という最後の儀礼をも忘れてはいない。たたみの上で病死する者にもなかなか至難な沈着さで、彼女は死へ旅立ってゆく。これまで最も凄惨せいさんな海上の死闘がくりひろげられている中で、二人の死は、誰の場合よりも静謐せいひつな、浄福ともいうべき光りに包まれている。
「海の底にも都はございます」
それは幼帝をなだめすかすためのものではあるが、現世に絶望した女の、あきらめと来世への願いを込めた言葉でもある。
もうそこには重衡の手紙に取乱した平凡な、か弱い母の姿はない。不幸という不幸をすべて引受け。いま静かに死の世界に旅立とうとしている悟りきった人間時子がそこにないる。ここで思い返されるのは、八島での彼女の言葉である。
「私が生きているのは、幼い帝が都を離れてどうなさるのか、それが心配なこと。あそれにもう一つ、宗盛どのに、もう一度よい思いを味合わせてあげたいこと、そのためなのです」
彼女の願いも空しく、平家はいまや滅亡せんとしているし、幼帝の運命もぎりぎりまで追いつめられてしまった。とすれば、彼女の存在理由は全くなくなったといっていい。そう知った時、彼女は心静かに死への道を選び取ったのだ。
八島では彼女はそう言いながらも重衡への愛に取り乱した。そして、人々に彼女の願いを拒まれ、徹底的な打撃を受けた。多分この時から、彼女は死を見つめる強い人間になったのではないか。『平家』は彼女の変化について語っていないが、彼女自身のドラマを探るとすれば多分そういうことになるだろう
あの日以来、彼女は夫のしたことの報いを受け取るために生きることを決心したのかも知れない。そして一切の締めくくりをゆけて、「平家」の歴史をわが手で終わらせるために、今、幼帝を抱いて死んでゆくのである
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