~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/09
二 位 の 尼 時 子 (六)
そうお言われた時、時子は、はじめてそれまでの彼女の心境を打ち明ける。
故入道におくれて後は、かた時も命生きてあるべしともおもはざりしかども、主上かやうにいつとなく旅だたせ給ひたる御事の御心ぐるしさ、又君をも御代にあらせまいらせばやな(ン)どおもふゆへにこそ、いままでもながらへてありつれ。中将一の谷でいけどりにせられぬとききし後は、きもたましゐも身にそはず。いかにしてこの世にていま一度あひみるべきとおもへども、ゆめにだにみえねば、いとどむねせきて、ゆみづものどへ入られず。いまこのふみをみて後は、いよいよ思ひやりたる方もなし。中将世になき物ときかば、われも同みちにおもむかんと思ふ也。ひたたび物をおもはぬさきに、ただわれをうしなひ給へ。
(清盛殿にお別れした時は、しばらくも生きていたくなかったのだけれど、帝がこのように、あてもない旅に御出発なさったことのおいたわしさ、それにそなた (宗盛) たちを、もう一度世にときめかしてあげたいと思うからこそ、今まで生きながらえて来たのです。重衡が一の谷で生捕りになったのを聞いて以来、魂が身から抜け出てしまったような不安な気持ちで毎日を過ごしています。どうかして、今生でもう一度会いたいと思っているのだが夢にも出て来ない悲しさ、もう食事も喉へ通りませんでしたが、今この手紙を見てからは、もうどうしてといかわかりません。もしこちらが朝廷の申し出に応ぜず、あの子も死んでしまうということなら私も同じように死にたい。もうこれ以上苦しむのはつらすぎます。今ここで私をころしておくれ)
平凡な妻の、母の愚痴めいた告白のようにもとれるが、彼女のそれから以後の生き方を考え上に一つの手がかりとなる言葉でもある。夫の死後、もう生きていたくない、と思うものの、孫にあたる安徳帝の前途への不安やら、宗盛たちに、父と同じ栄華を味あわせてやりたいという思いにひかれてここまで来たことを彼女は告白する。夫に殉じることはむしろたやすい。夫の撒いてしまった種子がどのような結果を生むのか、それを見届けるのはつらいことだが、そのために彼女は生きようと決心したのだ。清盛の死んだ時点で、彼女は彼の妻として、重荷をすべてその肩に担おうとしたのである。
とは言うものの、彼女はまだ動揺している。重衡の危機を目の前にすると、大局に対する配慮も忘れて、内侍所を返してくれと懇願する弱い母になってしまう。自分が中心になって後始末をつけねばと思う強さと、子を思って取り乱す弱さとがぶつかりあい、彼女自身の生き身をねじりあげる。血の出るような叫びとはまさにこのようなものであろう。母としての切り刻まれるような苦しみが、文字の底からにじんで来る。
が、その時の平家の状態は、か弱い母の繰り言を聞き入れるだけの余裕はなかった。一門の中で最も思慮のある彼女の三男の知盛がこの会議の結論を出す。
「いくら三種の神器を都にお返ししても、重衡を返してくれることはまずないだろう。とすれば、ここで、はっきりとそのように返事をさし上げた方がいいのではないか」
たしかにその通りであろう。安徳帝と三種の神器が、現在都を離れた平家の正当性を主張できる唯一の拠り所である。すでに朝廷側では安徳帝を帝と認めず、新帝を立ててしまっている現在、もし三種の神器を巻き上げられてしまっては、安徳帝も帝としての正当性を失うし、平家は西国の孤児として、見放されてしまう。だからいくらかわいそうでも重衡と引き替えに神器を渡すことは出来ないのだ。」
時子の願いは、一門の意志によって空しくしりぞけられる。時子は絶望の涙にくれながら、やっと重衡への手紙を書きはじめる。が、筆を持っても何を書いてよいやらわからない。ただ母の愛が夢中で筆をとらせ文字を書かせたという状態で、ともかく一文をしたためて都からの使いに持たせてやった。
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