~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/08
二 位 の 尼 時 子 (五)
さて、少し清盛のことに深入りをしすぎたようだが、かくて彼はあわただしく世を去る。『平家』はその死を「あつち」をしたと書いている。あつちは身もだえする意味らしい。おもしろいことに『平家』はこうして清盛を悪人に仕立て上げているが、一方全く矛盾するような話ものせている。「入道死去」の少し後にある「慈心坊」の章がそれで、それによると、清盛は比叡山の中興の祖である慈恵 (元三大師) の生まれ変わりで、天台の仏法護持のために日本にふたたび生まれたのだということになっている。清盛についても、さまざまの見方があったことの現れかも知れない。
こうして、清盛が祠に、出家して二位尼と呼ばれるようになると同時に、時子の周囲には、一度にどっと悲運が押し寄せて来た。寿永二年 (1183) 、木曾義仲追討の為に北陸に下った平家は、倶利伽羅くりからとうげで惨敗し、命からがら都にせ戻って来た。
── こうなっては、今にも義仲が攻めて来る。
それを防ぐ自信もなくなり、平家の一族は、急遽都を離れて西国へ旅立つことを決意する。のるかそるかの一戦をむざむざ放棄するという弱腰の決定を下したのは、時子の息子の宗盛である。父の剛毅さも持たず、母の周到さも持たない凡庸ぼんような男が、一門を統率する地位にいたことが、平家にとっては不幸だったが、今はとやかく言っている余裕すらもない。時子も息子の決定通り、娘の徳子や安徳帝と共に都を離れて西国へ向かうよりほかはなかった。彼ら一門がいったんは勢力を盛り返して、一の谷まで攻め上って来たこと、そこで義仲に代わって都を制覇した鎌倉勢と戦って敗れたことなどはすでに述べたが、この合戦は、時子を更に苦境に追い込む結果となった。彼女の愛していた末子の重衡が、源氏の軍勢のとりこになってしまったからである。
重衡は都に連れ戻され、捕虜として都を引き廻されるという屈辱を経験させられる。京中の人々はこれを見て、
あないとをし、いかなる罪のむくひぞや。いくらもまします君達きんだちのなかに、かくなり給ふ事よ。入道殿にも二位殿にも、おぼえの御子にてましまひしかば、御一家の人々もおもき事におもひたてまつり給ひぞかし。
(まあ、かわいそうに、いかなる罪のむくいで、沢山いる平家の公達の中で、この方がこういう恥ずかしめを受けるようになったのか。清盛公にも夫人の二位殿にもかわいがられた御子だったから、御一家の人々にも重要視されていたのに・・・・)
うわさしあったという。それを聞いた時子は胸つぶれる思いだったが、彼女の憂悶はそれだけでは終わらなかった。
「重衡の命は助けてやってもいい。そのかわりに──」
と、都の朝廷から、難題が持ちかけられたのだ。朝廷の条件は、
「重衡とひきかえに、三種の神器をかえせ」
このころ、朝廷では、安徳帝の代わりに、高倉の四の宮、尊成たかひら親王をたてていた。ところが、平家は都落ちする時、三種の神器を持って行ってしまったので、新帝は帝位を象徴するものがなかった。三種の神器というのは、天皇の権威の象徴だから、これを手にしなくては、本当の天皇になれない ── と当時の人は考えていた。だからこの機会に重衡をだしにして、神器を取り戻そうと計ったのだ。
時子にしてみれば、何としてでも重衡を取り戻したいところである。このまま放っておけば、鎌倉方の手で殺されてしまうかも知れない我が子を思えば、気が気ではなかったらしい。八島の根拠地にやって来た朝廷からの使いは、正式の院宣 (後白河法皇からの命令書) のほかに、時子宛ての重衡の手紙を持って来た。
「今一度私を見たいと思召おぼしめしならば、内侍所 (神鏡) 返還の事を、よくよく宗盛さまにお伝え下さい。そうでないと私はもうこの世ではお目にかかれないかも知れませぬ」
と書いてある手紙を手にして、時子は泣き伏すばかりだった。
院宣には何と答えるべきか ── 平家一門の会議が始まった。と、人々の並んでいる所へ、ふすまを押し開けて、時子が転がり込んで来た。
二位殿は中将のふみをかほにおしあてて、人々のなみゐたまへるうしろの障子をひきあけて、大臣殿おほいとのの御まへにたをれふし、なくなくの給ひけるは、「あの中将が京よりいひおこしたる事のむざんさよ。げにも心のうちにいかばかりの事を思ひゐたるらん。ただわれにおもひゆるして、内侍所を宮こへかへしいれたてまつれ」との給へば・・・・
(時子は重衡の手紙を顔に押し当てて、人々の並んでいる後の障子をひきあけて、宗盛の前に倒れ伏し涙ながらに言った。「あの子が都から書いてよこした手紙のあわれさ、ほんとうにどんな気持ちでいることやら。どうか私に免じて、内侍所を返して重衡をひきとっておくれ」)
が、この時総帥宗盛は母の言葉を聞き入れなかった。
「たしかに私情ではそう思いますが、それではやっぱり世の中の聞こえも如何かと存じます。それの頼朝がどう思うかということを考えると、ちょっと恥ずかしくもありますので、向こうの言う通りすぐに内侍所を返すわけにはまいりませぬ。帝が帝として認められるのは、その象徴である内侍所があるからです。いまそれを返してしまえば、安徳帝自身がもう帝ではなくなってしまいます。子をかわいがるのも時と場合によります。あの重衡と他の子供や一族をとりかえりことは出来ませぬ」
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