~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/06
二 位 の 尼 時 子 (四)
うるふ二月二日、二位殿あつうたへがたけれ共、御枕の上によ (ツ) て、泣々なくなくたまひけるは、「御ありさま見たてまつるに、日にそへてたのみみずくなうこそ見えさせ給へ。此世このよにおぼしめしをく事あらば、すこしもののおぼえさせ給ふ時、おほせをけ」とぞ給ひける。
(清盛のそばへ近づくことは熱くてたえられなかったが、それでも閏二月二日、時子はその枕辺に近寄り、涙ながらに言った。「御様子を見ると、日に日に望み少なになっていらっしゃるようです。何か言い置いていらっしゃることがありましたら、少し御気分のいい時、おっしゃっておいてください」)
が、この時の清盛の返事は思いがけない事だった。日頃は太政大臣入道として、威厳のそなわった彼も、今は、苦し気な吐息まじりに、やっと口を開いたが、その言葉は、
われ保元・平治よりこのかた、度々どどの朝敵をたひらげ、勧賞けんじやう身にあまり、かだじけなくも帝祖太政大臣にいたり、栄花子孫に及ぶ。今生の望み一事ものこる処なし。ただしおもひおく事としては、伊豆国の流人、さきの兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝がくびを見ざりつるこそやすからね。われいかにもなりなん後は、堂塔をもたて、孝養をもすべからず。やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わがはかにまへにかくべし。それぞ孝養にてあらんずる。
(自分は保元、平治の乱このかた、度々朝敵をらいらげ、身にあまる恩賞を得て、もったいなくも帝の祖父となり、太政大臣にまでなった上に栄華な子孫にまで及んだ。この世でこれ以上の望みはない。ただ残念なのは、伊豆にいる流人頼朝の首を見ることが出来なかったことだ。自分の死後は堂塔を建てたり、仏事供養をする必要はない。早速に討手をつかわして、頼朝の首をとり、それを墓前に供えてくれ。これこそが最上の供養であろうぞ)
果たして清盛が、そう言ったかどうかは確かではない。『平家物語』は重盛を信仰心の厚い人として、ひどく美化して描くかわり、清盛を仏心のない悪人に仕立て上げてしまっているから、ここもそうしたフィクションとも考えられる。清盛がここでなまじ仏心を出してしまっては、物語の発展上困るのだ。最後の最後まで全く仏心の持たない清盛がこうした遺言をしたおかげで、平家一門は仏に見捨てられ、滅亡の一途をたどるのだ、としなければ、『平家』の筋立てが成立たないのである。
いわば、これは、後の物語を展開させるための大きなやま・・場である。それだけに、清盛をより以上に悪役に仕立て上げる必要があったのではないか。実をいうと、清盛はさほどに仏に無関心な人物ではない。それは厳島いつくしまに今も残る「平家納経」ひとつを見ても分る通りである。藤原道長や白河法皇が造寺、造仏をしたように、清盛もまた、時々仏事供養もやっているし、当時の貴族としての平均的な仏心は持ち合わせていた。また延暦寺などに対してもむしろ妥協的で、後世の織田信長に見られるような、徹底的な憎悪や否定はやっていない。彼はそれほど反時代的な改革者ではなかったのだ。清盛論をやる人の中には、『平家』のこの部分の「堂塔供養はいらない。頼朝の首を供えよ」という言葉を取り上げて、これが清盛の個性であるかのように論じる人もいるが、これは物語のフィクションであって、直ちに清盛の言葉とすることに、私はためらいを感じている。
ただ言えるのは、後には『平家』のテーマとするような「諸行無常」という感覚はなかったろうということだ。これは平家滅亡という大動乱期を経験して、はじめて時代思潮として定着する考え方であって、清盛自身、頼朝や義仲の擡頭たいとうに苛立ちはしたものの、彼らが平家の栄華を根底からくつがえすものになろうとは思っても見なかったに違いない。そうした事実が起こった後ではじめて、「これも仏のたたりか」と考えたり「諸行無常、盛者必衰」と感じるわけであって、清盛には重盛に見られるような罪の意識がないことは当然でもある。
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