~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/05
二 位 の 尼 時 子 (三)
では清盛の病気は実際にはどうだったのか。九条兼実の日記、『玉葉』には、治承五年二月二十七日に「禅門頭風ヲ病ムト云々」と出て来るのがはじまりである。つづいて二十八日には「禅門ノ頭風、事ノ外ニ増ス有リト云々」とあり、越えてうるう二月三日にその病気が殊に進んだと記す。清盛の死が報じられるのは同月五日で、この日兼実は使いをやって中宮、時子、宗盛に弔意を表している。が、おもしろいことに、彼は清盛の死を仏罰とは見ていない、むしろ、
「人を罰したり、仏像堂舎を焼くという大逆罪を犯している彼は、因果の理によれば、敵軍のために殺され、屍を戦場にさらすべきなのに、それをもまぬがれ、病気で死ねたというのは、その宿運の強さに、人間には測り知れないところだあるのだろうか」
と書いている。頭風というのは頭痛のことで、これだけでは大熱病かどうかわからない。
ところが、同じ時代に生きた歌人の藤原定家の日記『名月記』にみると、彼は閏二月四日にはじめて清盛の病気を知ったらしい。当時は新聞もラジオもなく、人のうわさで伝えられる程度だから、情報はむしろ今より重要な意味を持っていた。特に機密的な情報は上層部から下へと流れるのが常であって、上の人ほどニュースを聞くのが早い。兼実が二月中にすでに清盛の発病を知っているのに、定家が閏二月に入ってからやっと知るあたりにもこの事は現れていると思う。
面白いことに、その定家には、清盛熱病説が早くも伝わっている。
或ハ云フ。臨終動熱悶絶ノ由、巷説こうせつニ云々 (原文は漢文)
臨終には高熱を発して苦しみもがいて死んだという噂でもちきりだ、と言うのである。
してみると、そもころから熱病という噂は流れていたことも事実だったらしい。しかし、兼実と定家の情報キャッチの速度が示すように、その正確性もまた兼実の方がすぐれていると見なければなるまい。しかも定家も、「巷説」とことわり書きしてあるくらいだから、熱病で悶絶したのも、どの程度真実かはわからない。が発病が二十七、八日で、死んだのが翌月の五日とすればその間はほとんど一週間くらいしかない。さまざまの話題をよんだ一大の英傑の、あまりにもあっけない死が、とかくの噂を生み、それがやがて熱病で死んだという話に定着してゆくことは十分考えられる。
ところで、『平家』には、時子は、この時、ひどく恐ろしい夢を見た、とある。
入道相国の北の方、二位殿の夢にたまひける事こそおそろしけれ。猛火みやうくわのおびたたしくもえたる車を、門の内へやりいれたり。前後にたちたるものは、或は馬の面のやうなるものもあり、或は牛の面のやうなるものもあり。車のまへには、無といふ文字もんじばかり見えたるくろがねの札をぞたてたりける。二位殿の夢の心に、「あれはいづくよりぞ」と御たづねあれば「閻魔えんまの庁より、平家太政入道殿の御迎にまい (ツ) て候」とまうす
「さてその札は何といふ札ぞ」ととはせ給へば「南閻なんゑん浮提ぶだい金銅十六文の盧遮那仏るしゃなぶつやきほろぼし給へる罪によ (ツ) て、無間むけんの底にだし給ふべきよし、閻魔の庁に御さだめ候が、無間の無をかかれて、間の字をばいまだかかれぬなり」とぞまうしける。二位殿うちおどろき、あせ水になり、是を人々にかたり給へば、きく人みな身の毛よだちけり。
(清盛夫人の二位殿がこの時に見た夢こそ怖ろしいものだった。猛火の燃えさかる車がわが館に入って来て、見ると、馬や牛のような顔付をした者がその前後に従っている。車の前には『無』と書いた鉄の札が立っている。時子がこれは「どこから来たのか」と聞くと、「地獄のえんまの庁から清盛どののお迎えに来ました」という返事だった。「では、その札の意味は」よ聞くと、「この人間世界で東大寺の大仏を焼いた罪によって無間地獄へ陥ちることに決まっているのだが、その『無』の字だけ書いて、まだ『間』の字は書いていないのです」という。はっとして目を覚ました時子は、全身にびっしょり冷汗をかいているのに気づく。この夢の話をしたところ、聞く人は皆、身の毛のよだつ思いをした)
このことが果たして事実かどうかは今は確かめる術もないし、また、確かめる意義があるとも思われないが、先にも触れたように、『平家』が寺々の信仰に結びついた形で琵琶びわ法師たちによって語り継がれていった事を思えば、こうした説話が生まれることは、すぐ想像がつく。当時最も重い罪は、神仏に非礼を働くことで、これを犯せば必ず地獄へ行くと考えられていた。素朴な民衆教化のための宗教説話的な要素も含んでいた『平家』としては、どうしても強調しなければならないことであり、大仏を焼くという日本史はじまっていらいの大罪を犯した清盛の死について、大声でわめきたてるのは無理もない所であろう。東大寺の大仏が猛火に包まれて滅んだように、清盛自身、目に見えない猛火に包まれて苦しみ、しかも陥ちゆく先は無間地獄ということを暗示しなければ気がすまなかったのだ。
定家の日記にも見られるように、これは物語としての『平家』が成立する前の素朴な民衆感情だったらしいから、いよいよ物語が成立した時、時子の悪夢という形でそれが語られるのは、ごく自然な成り行きかも知れない。だから、ここで時子がこのような夢を見たかどうかを詮索することは無意味である。今はそれをさておき、物語を辿ってみよう。
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