~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/05
二 位 の 尼 時 子 (二)
高倉帝には中宮徳子のほかに幾人かの愛人がいた。その一人、小督についてはすでに述べたが、ほかに七条修理大夫、藤原信隆の娘も寵愛を受けて何人かの子供を生んだ。彼女は徳子に女房として仕えるうちに、高倉の目にとまったものらしい。が、清盛の威光を恐れた父の信隆は、娘が子を生んだことも内聞にしていたが、この時助け舟を出してくれたのが時子だった。
「かまいませんよ。私がお育てしましょう」
こういって乳母などもたくさんつけて、皇子たちを大切に育てた。
これだけ書くと、時子という人は、ひどくやさしい女性のように見える。が、彼女が皇子を育てる理由はいくつかある。というのは前に書いたように、信隆の妻は、どうやら清盛と彼女の間に生まれた子供らしいからだ。信隆の娘というのは、彼女の孫にあたるのだろうか。それでは年齢的にいささかおかしいような気もするので即断は避けたいが、ともあれ、信隆と時子は、縁は深い。その縁に連なる皇子だからこそ、時子は引き取って養育する気になったのであろうが、また万一徳子の生んだ子が早逝したような場合、身近に帝位候補者を確保しておくための、準備工作と見られぬこともない。
また大変興味があるのは、その中の一人の皇子の乳母に彼女の兄弟の能円法師という僧の妻が選ばれていることだ。系図 (276ページ参照) を見ていただくとよくわかるように、彼は時忠や時子の異父兄である。彼女たちの母が平時信と結婚する前に、藤原顕憲と結婚して生まれた子で、当時の子供はみな母方の家で育つから、父が違っても母を同じくすると子供は一つの家で生活するわけで、従って彼女と能円とはごく親しい間柄にあった。
時子がこの時、娘以外の女性の生んだ子をみずから引き取り、しかも自分の異父兄に面倒を見させたというのは、一面から見ると、なかなか用意周到な政略でもある。彼女はただやさしいというだけではなく、度量もあるし、物事を大局に立って考えることの出来る女性だったのかも知れない。
後に安徳帝が平家と共に都を離れると、それに代わって即位したのは能円たちの育てたこの四の宮だった。これが後の後鳥羽天皇であり、このあたり、歴史の裏面が透けて見えて来る感じである。
が、思えば、この頃が時子の幸福の絶頂だった。人間として女性として手に入れられる栄誉をすべて手にしたものの、その翌年には、早くも運命の黒い影は彼女のまわりに忍び寄って来た。夫の清盛が発病したのである。彼の病気のすさまじさについては、昔から有名な話がある。
おなじき廿七日、さきの右大将宗盛卿、源氏追討の為に、東国へ既に門出ときこえしが、入道相国違例の御心ちとてとどまり給ひぬ。あくる廿八日より、重病をうけ給へりとて、京中・六波羅ろくはら「すは、しつる事を」とぞささやきける。入道相国、やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへもいれ給はず。身の内のあつき事火をたくが如し。ひし給へる所四五間が内へいるものは、あつさたへがたし。ただの給ふ事とては「あた あた」とばかりなり。すこしもただ事とは見えざりけり。
(治承五年廿七日、清盛の息子の宗盛が、源氏追討の為に東国へ出発するという話だったが、入道相国が病気というので中止になった。しかもあくる二十八日からはその病状も重体になったということで、京も六波羅も「それ、見た事か、悪業のむくいが現れた」とささやいた。清盛は病気にかかったその日から水も喉を通らない。体の熱いこと火をたくがごとくで、病臥している所の四五間近くに入っただけで、まわりの人々は熱さに堪えられなかった。そして清盛自身は、口にすることは、ただ「あつ あつ」というだけで、ただ事とは思えなかった)
近づく者まで熱くてたまらない、などというのはいささかオーバーだが、熱病の描写はさらに続く。
比叡ひえい山より千手井の水をくみだし、石の船にたたへて、それにおりてひへ給へば、水おびたたしくわきあが (ツ) て、程なく湯にぞなりにける。もしやたすかり給ふと、かけひの水をまかせたれば、石やくろがねな (ン) どのやけたるやうに、水ほどばし (ツ) てよりつかず。をのずからあたる水はほむらとな (ツ) てもえければ、くろけぶり殿中にみちみちて、ほのほうづまひてあがりけり。
(比叡山の東塔西谷の千手堂の傍の清水をくみ下して来て、石の湯ぶねに入れて、それの入って体を冷やすと、水は激しい勢いで沸き上がり、まもなく湯になってしまった。また、もしや助かるかと思って筧の水をかせると、焼けた石や鉄にあたるように水ははねて寄り付かないし、中で自然に体にあたったものは炎となって燃え上がったので、その煙が殿中にみちみち、炎は渦巻いて上がるという有様であった)
ここまで来ると、まるきりのお話である。とにかく、これまで清盛は、いろいろの罪を犯して来た。人々を殺したり、島流しにしたり、法皇を離宮に押し込めたり、息子に奈良を攻めさせ、大仏を焼かせたり・・・・だから今度の発病を、人々は罪業のむくいが来たと思ったのである。その意味ではここは清盛の病気に対する描写というよりは大仏を焼いた報いとして、この世で彼が経験した焦熱地獄とみればいいかも知れない。
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