~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/05
二 位 の 尼 時 子 (一)
一代の英傑の妻、そしてきさきの母 ──。たいらの時子ときこの前半生は、まさに目くるばかりの栄光に包まれていた。が、そのかわり後半生は、考えられる限りの無残さを集めて背負い込んだ感じだった。夫の死、一族の没落、孫を抱いての非業の死・・・・。日本一幸福でしかも日本一不幸だったのが彼女だといってもいい。
個人的な意見を言わせていただくと、『平家』に登場する女性のうち、私が最も深く印象づけられるのは、この時子である。
『平家物語』を平家一門の盛衰を語った物語と規定するならば、彼女こそまさにそのすべてを見、かつ自分自身で味わい尽くした人物だ。たとえば夫の清盛は、前半の栄華を築きはしたが、平家の終末は見ないで死んだ。そのほかの息子たちは、年齢的にも幼かったから、物心ついたとき、すでに平家は中央政界にのし上がっていた。彼らはそれぞれに、平家滅亡の悲惨は味わったが、上り坂にある者の味わう創造のよろこびを実感していない。
それに比べて、時子はその全てを味わっている。その意味では、当然女主人公にえられてもいい人物なのだが、『平家物語』の中で彼女の占める位置はさほど大きくはない。果たして『平家』は彼女の人物像の全てを語っているのだろうか。ここでは、問題提起にとどめ、まず、『平家』の本文に従って時子像をたどってみたい。

彼女が清盛とどういういきさつで結ばれたのかははっきりしないが、この時すでに清盛は別の女性との間に重盛をもうけていたようだ。
彼には分っているだけで十八人の子供がいるが、確実に時子の子と思われるのは、宗盛、知盛、重衡、徳子で、このほか、徳子が壇の浦で助けられて帰って来た時、彼女を見まいにやって来た藤原隆房の妻や、信隆の妻も、その関係からみて多分時子の娘ではないかと思う。
ところで『平家物語』で彼女は、すでに二位殿として登場する (正しくは従二位) 。位を授けられた時点は、はっきりしないが、多分娘の徳子が入内じゅだいし、ついで中宮になったころではないかと思う。娘が立后すると、それにともなって、母親にも相当の位が与えられるのがそのころのならわしだったからだ。もっともそれ以前に時子は従三位を授けられているが、このことは後でまた触れたい。しぜん彼女の周囲も華やかになったろうと思われるが、『平家』で見る限の彼女は、まだ平凡な母であるにすぎない。徳子のお産のところで、清盛と一緒に、二位殿が、
「こはいかにせん、いかにせむ」
と言うだけだったというのも、その一つのあらわれであろう。その後、1180年、高倉帝はこの幼児に譲位する。これによって、時子は清盛とともに天皇の外祖父母として、准三后の宣旨を得て、年官年爵を賜るにいたった。この准三后というのは太皇太后、皇太后、皇后に准じる待遇を得ることで、すなわち准三后の待遇に准じた年官年爵 (『平家』の中では年号と書いているが、本来は年官と書くべきもの) を賜ったというのである。
年官年爵というのは年給とも言い、毎年天皇・上皇・后妃・東宮以下高位高官の人々が、特定の者を官職 (中央や地方の下級官) や位 (高級位階の入り口である従五位下) に推挙する権利。推挙された者は任料・叙料 (推挙に対する謝礼) を推挙者に納めるもので、推挙者の収入となったが、やがて収入を伴わぬ形式的なものとなり、後世では架空名の人物を推挙するようになった。
ともあれ、年官年爵を得るということは、実利を伴うと否とにかかわらず、一つの権威の象徴として、長く続くのである。しかもこの権利は推挙者の身分によって差があり、准三后には三后と同様の推挙権を与えられる。
当時の彼女について『平家』はほとんど何も語ってはいないが、ただ一ヵ所、そのプロフィールをしのばせる短い話がある。
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