~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/03
建 礼 門 院 (八)
その後建久二年(1191)、建礼門院は病を得て他界した。その死に当たっては、仏壇中央の阿弥陀如来の手にかけた五色の糸を引きながら、「南無西方極楽世界教主弥陀如来、かならず引摂ゐんぜうし給へ」(阿弥陀さま、きっとお救い下さい)と念仏を唱えた。
その声が弱くなった時、西の空に紫の雲がたなびき、何とも言えないよい香りが部屋に満ち、音楽が空に聞えた。その極楽往生はまちがいなし、と誰の目にも映ったのであった。
清盛が天皇を恐れず、万民をかえりみず、思いのままに事を行い、死罪流罪を行ったことのむくいで平家一門は滅びたが、建礼門院は仏道修行のおかげでこれをまぬがれ、極楽往生を遂げたのである。
この「灌頂巻」とそれ以前の十二巻までとを比べると、建礼門院の扱いには、あまりにも違いがありすぎる。それまでの彼女は、ただ運命に押し流されるだけであり、彼女に関する描写も全く簡単だが、この巻に来ると俄然彼女は人が変わったように雄弁になり、悟りすました聖者になってしまう。
小説の作りからすれば、これはいささか不自然である。もし最後にこれだけの大活躍をさせるのだったら、伏線として、これ以前にもう少していねいな描き方をしておいてしかるべきであろう。
このアンバランスがなぜ起きたか? 一つ考えられるのは、この「灌頂巻」は一応『平家』が成立した後で付け加えられたものではないか、ということだ。そういえば「灌頂巻」の前の「六代被斬きられ」の最後に、「それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ」という文句がある。これはいかにも『平家物語』の全編をしめくくるにふさわしい言葉である。が、『平家』が語られ、もてはやされていくにつれ、生き残った建礼門院のことがクローズ・アップされ、もう一度『平家』の総まとめの形で、この巻が付け加えられたのではないだろうか。
これは私の単なる推量ではない。学者の中にも『平家』の原型の中には「大原御幸」や「女院死去」は含まれていなかったと考える人がかなり多い。また、この部分が、あるにはあったが、年代順にしかるべき処に組み入れられていた、と見る見方もある。そういえば、大原御幸は文治二年のこととされているから、六代が斬られるよりずっと以前である。大体『平家』は年代順に語られていることを思えば、そういうことも十分に考えられる。
また全く別の考え方としては、『平家物語』とは別の「女院物語」とでもいうべきものがあって、これがいつの間にか『平家』の中に加えられたという見方もある。
『平家』専攻の学者でないかぎり、このどれが正しいか決めるのはなかなかむずかしい。が、いま私たちが考えてみなければならないのは、その成立過程もさることながら、建礼門院が、なぜこうした形で改めて語られたか、ということであろう。
ここで考えられるのは、ほかの女性の物語と同様、読者、聴衆の欲求ということである。「祇王・祇女」とか「小督」などで見て来たように、『平家』の中には本筋から離れた女性の物語がかなり多い。これが『平家』を受容する人々の好みに支えられてしだいにふくらんで来たものではないかということはすでに書いたが、建礼門院に対しても、同じことが言えると思う。
何しろ清盛の娘であり、中宮であるその人は、西海に逃れ、身を投げるというそのころの女性としては思いも及ばぬ異常体験をした。その上捕えられて都へ戻って来て出家したというのだから、これ以上数奇な運命をたどった人はない。大衆がこの女性を見逃すはずがないではないか。こうして「小督」や「横笛」と同じ発想から、建礼門院の物語が、急速にふくらんでいったことは、容易に想像できることだ。
また、仏教的な考え方の影響を重んじる人は、これを「女人成仏説話」とみているようだ。一方には重盛、維盛、重衡を描いて、在家の男の悟りへの道を語った『平家』の作者は、女性の代表として建礼門院を連れて来て、「六道輪廻」の体験を告白させた、というのである。「諸行無常」のことわりを説きたかった『平家』としては最後に生き残った建礼門院と後白河を対面させ、結論めいたことを言わせたかったろうし、六代が斬られただけで終わったのでは物足りなくなって、この部分を付け加えたのではないだろうか。
ともあれ、様々の要素が重なり合って、この部分が付け加えられ、ふくらんでいったと考えることは、一編の中での建礼門院の存在のアンバランス性を説明する手がかりにはなるであろう。
おもしろいことに、いま『平家』で一番有名なのは。あとからふくらんだと思われるこの部分である。これは一つには「灌頂巻」と名づけられて、最も大切な部分として注目をあびたからではないかと思う。「灌頂巻」という名は、平曲を語る琵琶法師が、これまでの十二巻ことごとく習い覚え、一番最後に奥許しとして教えられたことから、つけられたものらしい。「灌頂」とはもともと仏教用語で、密教の研究修行にはげんだ人物が、それを体得したしるしに、頭から水をそそがれること、つまり免許皆伝の卒業証書をもらうことなのである。
しかもその内容は建礼門院の悟りの告白である。その意味からいえば、この巻は『平家』全体にとっての「仕上げの巻」でもある。
こう見て来ると、「灌頂巻」が珍重された理由もほぼわかるような気がする。が、それだけでは、私のこの巻に対する謎はすべて解けたとはいえないのだ。
Next