~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/08/04
建 礼 門 院 (九)
そもそも、大原御幸はあったのだろうか? いま、そのことをあまり疑問視する人はいない。が、実を言うと、これを証拠立てる確実な根拠はあまりみつからないのだ。
その頃を知る一番確実な手掛かりは公家の日記である。が、残念ながら、この文治二年四月ごろの記事のある公家の日記はほとんどない。わずかにその日の記録があるのは『玉葉』(前述)だけなのだが、その『玉葉』には、法皇の大原行きは出て来ないのだ。
内密の御幸だったからと言えばそれまでだが、『平家』の本文がお供の人として名をあげている公卿たち ── 大徳寺、花山院、久我といった人々は、みな当代一流の重要人物だから、彼らがそろって朝廷から姿を消したとなれば、『玉葉』の筆者九条兼実がそれに気づかないはずはない。
兼実はもともと大変な情報通だ。しかも後白河と必ずしもうまくいっていなかったので、こと後白河に関する限り、異常なほど神経をたかぶらせるのが常で、たいていのことならすぐ聞きつけてしまう。それが全く後白河の白河行きを知らないということはあり得ないと思うのだが。
だからといって直ちに大原行はなかったとするのは行き過ぎだが、さりとて、百パーサント事実とすることも出来ないのだ。もちろん、後白河の大原行きを匂わせる史料もないわけではない。『吾妻鏡』の文治三年二月一日の条には、こうある。
「二品、没官領内二箇所。可被避進于建礼門院之由。有其沙汰。是摂津国真井。嶋屋両庄也。元者八条前内府知行云云。依被訪甲彼御幽梄也」
頼朝が、もと平宗盛の知行していた摂津真井庄と嶋屋庄を建礼門院に与えた、というのである。そしてその理由として、彼の幽梄を訪ねられたからであると書いている。問題はこの「被訪甲」である。『平家物語』を信ずれば、この文章の主語は法皇ということになる (『平家物語』は文治二年、『吾妻鏡』は翌年としている) が、そう読むことにはいささか無理があるように思う。『吾妻鏡』の慣例では法皇について言う場合は「御」をつけるとか、もう少し敬語を付け加えている場合が多いからだ。
では法皇でなければ誰か。頼朝とするのも少しおかしい。彼は建礼門院を訪問してはいないからだ。しかし「訪」という言葉には訪れるというだけではなく消息をたずねるという意味もある。彼が都にいる鎌倉の出先機関に建礼門院の消息をたずね、その生活を援助する意味で二庄を与えた、というふうに解すれば、納得がゆく。この事は私としても確信があるわけではないのだが、一つの問題提起として書いておく。
さらに付け加えるならば、私には後白河法皇という人が、わざわざ建礼門院に会いに行くような人だとは思えない。もともと平家討滅の院宣を源氏に与えたのは後白河その人だし、また性格的にも、絶対に敗北者をかえりみない人でもある。王者の冷酷さとでもいおうか、後白河という人は、自らのために身を滅ぼした人を顧みた事は一度もない。その人が、わざわざ鎌倉方の目をかすめて建礼門院に会いに行くというようなことがあったかどうか・・・・。
むしろ私はこの「大原御幸」は、『平家物語』の創作と見た方が自然だという気がしている。「祇王・祇女」や「仏御前」などの女性の物語が『平家』の作者の自由な創作であるように、「大原御幸」もむしろその系列の物語として後から付け加えられたのではないだろうか。
大原の奥をひどく物寂しく、建礼門院の生活もひどく貧し気に書いてあることも、その可能性を感じさせる。当時の大原は必ずしも人里離れた陸の孤島ではない。寂光院からさして遠くはない大原の三千院は、当時の仏教のメッカの一つで、現在よりさらに大規模な寺院があったらしい。そして『玉葉』の著者の九条兼実なども、この大原の三千院から、しばしば高僧を招いて法話を聞いている。『平家』がひどく物寂し気に描写しているのはいささか誇張にすぎる感じである。少なくとも、『平家』が別の所で見せるリアルな描写 ── 宇治川の先陣あたりの風景描写 ── と等質とは思われない。このあたりも、やや時代が下がってからの加筆を感じさせる。
したがって、ここに描かれた建礼門院自身の像にもかなりの創作があると見てよいのではないか。もちろん建礼門院の実像を伝える史料はきわめて少ないので、断定は出来ないのだが、ほんとうは、ごく平凡な、控え目な女性だったのではないかと思う。後白河法皇を前に、一大仏教論を展開するようなしっかり者ではなく、その前の部分で描かれているような、ごく影の薄い存在こそ、彼女の実像ではなかったか。
父に言われればそのまま天皇に嫁ぎ、そのまま男の子を生み国母ともなるが、いったん落目になれば素手でそれを支える才覚もなく、言われるままに都を落ち、まわりが死ねと言えば死んでみもせる。しかし本心から堅い決心をして飛び込んだのではないから、すぐ助けられてしまう。
もし彼女が激しい気性の女性だったら、こんなヘマはしなかったろうし、また助けられた後でもいくらでも死ぬ機会はあったはずである。が彼女はついぞそれをしなかった。そして生きられるだけ生きて、五十八歳くらいでこの世を去る。『平家物語』ではもっと若く死ぬことになっているが、実際にはその年ごろまで生きたらしい。。
こうして見て来ると、むしろ、喜びも悲しみも、彼女の心の中には、さして深くは突き刺さって来なかったのではないか ── そんな気持もしないではない。いや、世の中には案外そうしたタイプの女性がいるものだ。他人から見れば気も狂いそうな波瀾万丈の生活を送りながら、案外心のしんそこまでこたえていない女性 ── 感情も神経も振幅が少ない、そのくせかえって傷つくことも少ない女性 ── 彼女が夫を失い、子供を失い、没落した後も生き続けられたのは、そうしたタイプだったからではないだろうか。

実は彼女は北条政子とは同い年かあるいは一、二歳違いなのだが、政子の激しさに比べて見るとき、建礼門院の性格ははっきりすると思う。北条政子は人を激しく愛し、激しく憎み、そして自分もずたずたに傷ついた。形の上では将軍夫人となった政子は勝利者で、建礼門院は敗北者だが、そのどちらが心の底まで傷ついたかは簡単には言えないような気がする。