~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅲ』 ~ ~
 
==平家物語の女性たち==
著:永井 路子
 
二 人 の ヒ ロ イ ン
 
2018/07/30月
建 礼 門 院 (六)
出発は夜の明けないうちだった。鞍馬くらま街道を経由する道が選ばれたが、これは当時の裏街道でかなり険しい道だ。歌人、清原深養父ふかやぶのゆかりの補陀洛ふだらく寺や小野皇太后宮(後冷泉天皇の中宮)が出家されてから住まわれた後などを見て、それから輿に乗られた。お供は徳大寺実定、花山院兼雅、土御門道親など側近の公卿六人、殿上人八人、北面の武士少々というごく小人数の、しのびの御幸だった。すでに木の梢は青葉になり、夏草のしげみを分けて行く道は、たずねる先がいかに山深く、人跡たえた所であるかを思わせた。
以下はこの中でも最も名文とされている所である。
西の山のふもとに一宇の御堂あり。すなはち寂光院是也これなり。ふるう作りなせる前水せんずい木だち、よしあるさまの所なり。「いらかやぶれては霧不断の香をたき、とぼそおちて月常住のともしびをかかぐ」とも、かやうの所をや申べき。庭の若草しげりあひ、青柳の糸をみだりつつ、池の蘋浪うきくさなみにただよひ、錦をさらすかとあやまたる。中島の末にかかれる藤なみの、うら紫にさける色、青葉まじりのをそ桜、初花よりもめづらしく、岸のやまぶきさきみだれ、八重たつ雲のたえ間より、やま郭公ほととぎすの一声も、君の御幸をまちがほなり。
このあたりは語り物としての『平家』の特色が最もよく現れた部分である。口調がよく、きらびやかな言葉が続く。そのかわり現代語に訳すと妙味が失われてしまうので、できるだけ原文で口ずさんでその雰囲気を味わっていただきたいところである。原文の雰囲気を損なうのであまり気がすすまないのだが、しいて現代語に訳せば、次のような事であろうか。
(西の山の麓に一軒のお寺があった。これこそ寂光院である。古めかしい池や木立も、いかにも由緒ありげである。「甍やぶれて、そこから入って来る霧があたかも不断の香をたいているが如くに流れ、扉が落ちて、そこから射し込んで来る月は、ちょうど常夜灯のようにあたりを照らす」というのは、こういう所を言うのであろうか。庭には草がしげり、柳は糸のように垂れた枝をゆらめかせている。池の浮草が波にただようさまは錦をさらしているのではないかと思われるほどだし、池の中にかかった藤のうす紫の花も美しいし、青葉にまじって咲く遅桜は、初花よりもかえって珍しい。岸にはすでに山桜が咲き乱れ、雲の絶え間から(八重は山吹の縁語)ほととぎすが鳴くのも、法皇のお出でをお迎えするかのようだった)
さらに建礼門院の住む庵室の描写になると、昔の詩をひいたり、掛けことばを使ったりして、ますます現代語訳はむずかしくなる。
女院の御庵室を御覧ずれば、軒にはつた槿あさがほはひかかり、信夫しのぶまじりの忘草わすれぐさ瓢箪へうたんしばしばむなし、くさ顔淵がちまたにしげし。れいでうふかくさせり、雨原憲げんけんとぼそをうるほすともい(ツ)つべし。杉の葺目ふきめもまばらにて、時雨しぐれも霜もをく露も、もる月影にあらそひて、たまるべしとも見えざりけり。うしろは山、前は野辺、いささをざさに風さはぎ、世にたたぬ身のならひとて、うきふししげき竹柱、都の方のことづては、まどをにゆへるませ垣や、わづかにこととふものとては、峯に木づたふ猿のこゑ、しづがつま木のおのの音、これらが音信おとづれならでは、まさ木のかづら青つづら、くる人まれなる所なり。
(法皇が女院(建礼門院)の御庵室を御覧になると、軒には、蔦、朝顔がいかかり、しのぶ草や忘れ草が生い茂っているのも、昔をしのぶ心と、忘れようとしている女院の心を象徴するかのごとくである。和漢朗詠集にあるように「瓢箪しばしばむなし・・・・」とでもいうべきであろうか。屋根の杉皮のき目もあらく、この分では、時雨も霜も露も、射し込む月影と同様、防ぎきれないのではないかと思われた。後ろは山、前は野辺で、ちょっとの風にも竹群がさわぎ、世の中から遠ざかって住む身には、憂い辛いことも多いであろうし、まして都からのおとずれは時折しかないことであろう。(憂き節と節のある竹柱をかけ、おとずれの間遠まどおであることと、ませ垣 ──竹垣があらく間遠に結っていることをかけている)わずかにおとずれるものは後の峯の木を伝う猿の声や、山のしずの男(身分の低い木こり)の木を切るおのの音くらい。これらのおとずれ以外は、来る人もまれな所である)
文中の和漢朗詠集の詩は、孔子の門人の顔淵と原憲のことをうたったもの。いずれも賢者だったが、ひどく貧しい生活をしていた。また最後の「まさ木のかづら青つづら」は繰る言うための言葉でもあるが、一方ではあたりに蔦かずらの生い茂った様の描写でもある。いかにも『平家』らしい文章だ。
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